中二病が治らない

そんな私の戯言です

書けなくてしんどい時期に考えたこと

これは、壁なのだろうか。

あるいは、壁と言うにはあまりにも低い、ただの段差でしかないのか。

 

ここしばらく、満足のいくものが書けていない。

自分の書いたものが、クソつまらなく感じる。
魅力的に思えたアイデアは書き上げるうちに陳腐なものへと成り下がり、興味のあるものごとを調べてまとめてみても、退屈な情報の羅列にしかならない。

 

これまでは、書けば書くほど成長が実感できていた。一本の記事を書き上げる度により多くの文字を書けるようになり、文章構成はより明瞭になっていった。

やる気がなくなったわけではない。テーマだって見つけ出せる。けれど、手応えがつかめない。自分が納得のいくものが書けない。

こんなことは今までになかった。

これがスランプ、あるいはプラトーってやつか。

 

自分にとって面白いものが、他の人にとっても面白いわけではない。

でも、少なくとも自分が面白いと思えない文章なら、そんなものは最初から書かないほうがマシだ。

 

人の真価は、ものごとが上手くいかなくなった時に試されるという。

そんな話を、以前聞いたことがある。
壁にぶつかった時、あきらめるか、ぶつかっていくか。
妥協して楽な道を進むか、困難な道だとわかっていてもよじのぼっていくか。

苦境への対応の仕方で、その人の真価が見えてくるという。

 

俺は、努力をしたことがない。

ここでいう努力ってのは、「部活で全国を目指す」とか「資格を取るために勉強する」みたいな、就職面接で話すような形式的なやつじゃない。

たとえば、志望校に合格するために机から片時も離れずに勉強し続けて、1日のノルマが終わったらそのままぶっ倒れるように眠り、起きてまた勉強という日々を繰り返すこと。
あるいは、創業したての会社をなんとか存続させようと昼も夜もなく働きつづけ、何か月もオフィスで寝泊まりしながら死に物狂いで成果を挙げること。

何かを本気で手に入れたいと思って、それ以外の全てを犠牲にして、血反吐吐きながら一心不乱にやるべきことをやる。

そういう「血の滲むような努力」をした経験が、これまでの人生で一度もない。

 

「いや、そこまでやらなくていいじゃん」
脳裏から囁く声が聞こえる。実際、その囁きは真実だ。

努力出来ないのは、単純にする必要がないからだ。
事実、世の中の大多数の人はたいして努力してないし、そんなことしなくても楽しく日々を過ごしている。
逆に、努力なんてしたくないしする意味も感じてない人に向かって「怠けてるだけでしょ」と言うのは余計な不幸を生むだけだし、なにより全くのピント外れだ。

努力とは、徹頭徹尾自分のためにやるもの。
欲しいもの、叶えたい理想があるからこそ、心血を注ぐもの。
本来はそういうエゴイスティックなもののはずだ。

「努力したことがない」というのは、つまりは「どんな犠牲を払ってでも、何かを本気で手に入れたい」と思った経験がない、ということだ。

それが俺のコンプレックス。
無欲ではなく、欲が弱いのだ。
ハングリーさ、あるいは男性性の欠如ともいえる。

何かを手に入れたいと思って努力してみても、ちょっと壁にぶつかると弱気になって言い訳して我慢して「実はそこまで欲しいものじゃなかった」って自分にウソをつく。
そういう自分が嫌いだ。

金も女も夢も、自分の望みが何一つ叶わなかったとしても、高潔に生きられればそれで満足?
なんて欺瞞だ。

もっと欲張りに、わがままになれ。
まだやれることがあるのに辞めるのは、絶対に間違ってる。

 

「書くこと」を本気でやってみたいと思った。
誰のためでもない。俺自身のエゴからくる動機。
壁にぶつかって辞めるのも、続けるのも自分次第。

ただ、ここで諦めたり妥協すれば、また同じことの繰り返しになる。

だから、今現在抱えているモヤモヤとかを、無理やりにでも形にした。
書き留める必要があった。そうしなきゃ前に進めない。

そして、ついに書き留めた。

あとは、あがいてみるだけやってみればいい。