遅効性モラトリアム

欲しいのはただそれだけ

この先何となくの方向性

旅行好きの両親の影響で、あちこちへ旅をするのが好きだ。

特に都市、日本の地方都市が好きだ。普段首都圏で暮らしているから、それ以外の場所にある程度の大きな経済と生活があることに感動を覚える。地場の百貨店やアーケード街などは、その土地にしかない文化のありようを感じられる。

あまねく地方都市は衰退の途上にある。統計データを見ても、東京以外の都市はたとえ政令指定都市であっても人口は減少しているし、賃金格差や文化格差も顕著だ。実際、僕が訪れた街の中にも「ここ、この先大丈夫なのだろうか」と心配になる街は少なくない。

東京一極集中は止まらないし、止められない。国際社会に対する日本のプレゼンスを考えたら、東京は世界随一のメガシティであり続けなければならない。しかしそれは、東京以外の都市(札幌や名古屋、大阪ですらも!)は衰退してしまっても構わない、ということを意味しないと思う。

僕は物心ついた時から東京の近くに住んでいたから、今地方で起きている問題を自分ごととして捉えるのは難しいのかもしれない。しかし、何らかの形で東京以外の都市の発展に貢献したい、人口の減っていくこれからの日本で持続可能な都市の成功事例を作っていきたい、そのために自分の持てる力を使っていきたいという気持ちがある。

 

とはいえ、今の時点では手段も道筋も勝ち筋も描けていない。さてどうするか。

リハビリ#2

一節によると「書く」という動詞は、人が文章を考えるときに頭を「かきむしる」様子からとられたのだといわれる。

頭を掻く行為自体がストレスと結びつけられるわけで、事実、文章を書くってことはストレスフルな営みでもある。

 

僕は、頭頂部あたりの髪の毛の一部がひどい枝毛になっている。それこそ、パソコンで何か文章を書こうとしているとき、なかなかアイデアが思い浮かばずにその部分を手でかきむしる。すると、キューティクルが引っぺがされた髪の断片が、チリチリと音を立てて落ちてくる。
みなさんご存じじゃないかもしれませんが、マジにダメージ受けまくった髪って本当に粉雪みたいに落ちてくるんですよ。そんで、竹製の蛇細工みたいにポキポキ折れる。

数十分もすると、机の上が髪のかけらで散らかってくるので、そいつを消しゴムのカスみたいに集めて、ごみ箱に捨てる。それでしばらくすると、再び頭をかきむしる。

ゴミ箱に毛っカスはたまる一方だが、原稿は全然進まない。時間だけがいたずらに過ぎていって、眠くなったら切り上げて、そのまま床につく。

そんなことを繰り返しているうちに、まったく文章が書けなくなった。

 

スティーブン・キングは、ちょうど小説で食えるようになったころにマホガニー材の机を買ったという。理想の作業場を得てますます筆が進むようになったのかと思いきや、逆に全く書けなくなって、マホガニーの前に座って飲んだくれてばかりいたという。

 

「書く」の語源が頭をかきむしる様子だったとして、そういう体勢だと逆に文章って浮かびづらいんじゃないだろうかって、最近時々考える。

実際、机に向かって身構えるよりも、電車とかバスの中、膝の上にノートを開いてボールペンで書いた方が、ぜんぜん捗る。

リハビリ#1

書けない。

全く書けない。

文章を書くのが苦痛で苦痛で仕方ない。
ひょっとしたら俺は、書くことが嫌いなんじゃないか。そう思ってすらいる。

実際、文章を書く時間があるんだったらサウナに行きたいし、サウナに行く時間が合ったらベッドでずっと横になって、ずっとyoutubeやらニコニコ動画やらを見ていたい。

でも、文章を書いてると、なんだか自分がいい人になったように思える。

だから、やめられない。やめたくない。

 

ひとまずは、こんなんでも書かないよりはましだから、記事にして残しておく。

お前の24時間は、何に喰われているのか?

経営コンサルタント大前研一氏は、人生を変える方法は3種類しかないと説く。
時間の使い方を変えるか、付き合う人を変えるか、住む場所を変えるか。
そして、最も無意味なのは決意を新たにすることである、とも言っている。

まったくその通りだな、と思う。特に最後の一文。

 

上記の「人生を変える方法」のうち、いち早く取り掛かるべきなのは「時間の使い方を変える」ことではないだろうか。
人付き合いを変えるのは一日二日じゃかなわないし、引っ越しをするにも費用が掛かる。その点、時間の使い方を変えるのに金銭の投資は必要ない。その気になれば、今日からでも変えられる。特に余暇の時間は、ほぼ100%自分でコントロールできる。

そこまでくれば問題は、やるか、やらないかだ。僕はやることに決めた。
時間は万人に平等に与えられている。金持ちも貧乏人も、頭のいい奴も悪い奴も、1日の長さはみんな同じ。時間は配給品だ。それゆえに、使い方次第で黄金にも紙屑にも変わる。せっかくなら、黄金を生み出そうではないか。錬金術師になってみせよう。

 

さて、日々の時間をより生産的に過ごそうと思ったら、まずは現状どんなふうに時間を使っているのか、その実態を明らかにする必要がある。

僕はスマホの使用時間が長い。iPhoneでは設定画面から1日あたりの平均使用時間を調べられるのだが、僕は1日に6時間から8時間くらい、スマホを開いているらしい。
休みの日なんかは、1日12時間以上使っている日も少なくなかった。
流石に使いすぎだろ。

週の余暇時間合計を70時間と仮定すると、1日6時間使ったら1週間で42時間。8時間なら週56時間、なんと余暇の8割をスマートフォンに費やしている計算になる。わお。

その40時間、50時間を何に使っているかというと、大体TwitterYouTubeなわけで。
iPhoneでは、アプリごとの起動時間も調べられるので、何にどれくらいの時間を費やしているのかチェックしてみると、総使用時間の約半分が上記2つのアプリで占められていた。

僕の余暇時間の4割は、TwitterYouTubeに喰われているわけだ。

もしこの時間をすべて、といわないまでも、半分くらい本を読んだり勉強したり、何か別の有意義な使い方が出来たなら。数年後には大きな差が出来ているはず。

すぐさま、僕はTwitterのアプリをアンインストールし、YouTubeニコニコ動画に1日1時間までの視聴制限を設けた。

漫然と過ごしていては、本来もっと価値あるはずの時間はどんどんインスタントな娯楽に喰われてしまう。
自己管理とは、自らの生活を編集することと見たり。探求は続く。

シェアできない日々

お久しぶりです。いかがお過ごしでしょうか?

 

私のほうは万事つつがなく、とまではいきませんが、心身ともに大きなダメージもなく、毎日ひっそりと生きています。

去年くらいから「文章を書いて生きる」と方向性を定め、本業とは別にプライベートでこそこそと記事を作り、ブログやnoteで公開する、というのを習慣にしています。
今年からはnoteに主軸を移したため、はてブロの更新がずっと途絶えていたのですが、そのnoteの方ですらここ数か月はなかなか完成できない、書くのがしんどい、そもそも書くことへのモチベーションが低空飛行を続けている、そんな状況が続いておりました。

とはいえ、やらない理由を並べ立てて自己弁護を続けても、状況は好転しません。
それなら気分転換にと、特に誰に伝えるでもないことを、ほとんど誰も読みやしない(?)こっちのブログで書いてみようかな、と思った次第でございます。

いやしかし、前置きが長いですね。

今週のあれこれ

・朝、会社へ行くとき、駅前で道行く人にあいさつをしているオッサンがいた。
エスカレーターの入り口脇に陣取って、張りのある声で「おはようございます!」「いってらっしゃい!」と激励の言葉をかけている。
政治家の人かな?と思ったが、名前を憶えてもらうための幟(のぼり)がどこにも見当たらない。どこかの店の宣伝活動を行っている感じでもなかった。近くで撮影をしている感じでもなかったから、YouTuberでもなさそうだ。
目的も意図も、何一つわからない。
もしかしたら、最初から目的も意図もなくて、ただの暇な人が思い付きでやっているだけなのかもしれない。だとしたら、まだまだ世の中捨てたものじゃないな、って思った。

度胸はつきそうだ。今度、やってみてもいいかもしれないな。
有休をとって、スーツでピシっと決めて、誰も自分を知らない駅で意味もなく挨拶を大声でやってみる。
案外やってみたら、得られるものがあるかもしれないな。
でもあれだな。底辺YouTuberの企画だと思われるのは、なんか嫌だな。

 

・某配信者の影響で、金ネジキにハマっている。
ハマり過ぎた結果、数年ぶりにDSを取り出して自分でプレーしてみたり、ポケモン世界大会の解説動画を見たりなんかしている。
世界大会なんかになると、まさにスポーツだ。知識と理論を限界まで詰め込んだ猛者たちが、バチバチの緊張感の中で薄氷を踏むようなギリギリの選択をしてみせる。
何かを極めた人たちって、それが何であれ、カッコいいよなあ。
素直にそう思った。
僕は結構、興味関心が短期間でコロコロと移り変わるタイプだ。
厳密にいうと僕の興味関心のツボは間欠泉みたいな感じで、定期的にブワーっと湧き上がってきたり突然しぼんだりするのだが、せめてその「湧き上がってる時期」くらいは、本気で極めるつもりでやってみるのがいいのかもしれない。

 

何も考えず、リハビリ的な感じであれこれ書いてみたけど、結構楽しいな。
気分転換もかねて、続けてみようかな。続けばだけど。

他人は石ころ

これから書くのは暴論だ。

その主張に正しさなどない。ただ、ぼくにとっては真実だ。

 

ちょっと前にnoteの方で記事をあげた。日常のちょっとした初体験をエッセイ風にしたためたやつだ。
結果、全然読まれていない。
現時点でPV数、リアクション(いいね)数ともにワースト。
びっくりするほど読まれない。

でも、よくよく考えたら当たりまえだ。誰も興味がないのだから。
顔も名前も晒してない、さらにはアウトプット数も少ない独身成人男性の私生活なんて、正直どうでもいい。

ぼくも読まない。顔も名前も知らない野郎のプライベートなんぞ、クソほども興味を持てない。というか多分認識すらしないだろう。

でも書き手が若い女性だったら話が変わってくる。ちょっと覗きに行く。
性の香りをしのばせようものなら、もう最後までイッキだ。

情けない。されどそれが男の性というもの。

 

「男は全ての女がうっすら好きで、女は全ての男がうっすら嫌い」とよく言う。

けだし名言だ。そしておそらく正しい。
しかし、まだ正確ではない。もっといい表現があるはず。

「男はほとんどの女を宝石だと思っていて、女はほとんどの男を石ころだと思っている」

これだ!
個人的にはとてもしっくりくる。

男が記号としての「女」に抱くものは好きという価値判断なんかじゃなく、もっと即物的、言ってしまえば下種な感情だと思う。所有欲、占有欲、ステータスの象徴。故に宝石。
同じく女から男への「嫌い」って表現にも違和感を感じる。女性にとっての不特定多数の男性は、嫌悪感を抱くほどの存在感を持っていないはずだ。いわば無関心。あってもなくても変わらない。だが歩く先にあると邪魔。故に石ころ。

 

(自分含め)モテない男性は、この構造を理解していない。よっぽどのことがない限り、女性にとって男は石ころなのだ。
話しかけてきたら「あ、なんか石ころがしゃべってるぞ」くらいにしか思わないし、優しくされたら「なんかこの石ころ私に優しいぞ」くらいの感情しか持たれない。

「ボク優しいはずなのにどうしてモテないんだろう」と嘆くのは全くのピント外れだ。まだバッターボックスにすら立たせてもらってないことに気づけ。
まずは人間として認識されろ。話はそれからだ。

 

と、ここまでまあミソジニー全開な感じで話しちゃったけど、冷静に考えるとこれって「女→男」に限った話でもないよなぁー。

性別にかかわらず、人っておのおのの人生に登場人物がいて、それ以外の人はいわば「モブ」とみなして、いてもいなくても変わらない扱いだよなー、なんて。
人によって登場人物の数はまちまちで。『ワンピース』なみに大所帯の人もいれば、『孤独のグルメ』みたくほとんど皆無な人もいる。
ぼくはどちらかというと後者に近い。多くの人と関係を結べるほど器用じゃないし、「友達100人」なんて勘弁してくれ、って感じだ。
それでも、自分が深くかかわりたいと思った人とは関係を築きたい。

それってわがままだろうか。

結局自分も、他人のことを石ころくらいにしか思ってないんだろうなー。
その中で見つけたキラキラ光るものだけを手に入れようだなんて、ムシが良すぎるよなー。

 

ああー。
人と関わりてぇ。でも、関わりたくねぇ。

ネタの見極め方

書くことへの悩みは尽きない。
ぼくのようなアマチュア以下のトーシロでさえも、だ。

 

特に最近は、何を書いたらいいか決めかねる。

 

何も思いつかないわけじゃない。アイデアを生み出す筋肉は日々鍛えているつもりだ。
だいたい、素直に「書くことが思いつかない」と書き出すのは愚の骨頂、ナンセンスの極み。
ニュース番組の冒頭で「今日はお伝えできるニュースがありません」なんて言おうものなら間違いなく炎上する。それと同じことをやってるわけで。

「いや、書くことが思いつかない苦しみを書きたいんだ!」
そう言いたいのだろう?気持ちはわかる。
だがそんなものは、自分だけが見れるノートか何かに書いておけばいい。
よく覚えておけ。特に具現化もされてないお前の頭の中の悩みなんて、他の人からしたらクソほどどうでもいいんだよ。

失礼。
過去の自分に向けて喝を入れていたら、横道にそれた。

 

目下の問題は「書くことがない」からもうちょっと先にあって、拵えたアイデアをどんなふうに料理するかってところだ。

ぼくは今、2つのプラットフォームを並行して使っている。noteの方では余所行きの、計算された、人に読ませるための文章を目指して書いている。こっちは割と行き当たりばったりというか、実験場、ガレージ、がらくた箱みたいな感覚で運用している。

文章を書く流れはどちらも変わらない。日ごろの思考や感情を膨らませてテーマを決め、構成を考える。必要な知識をインプットし、時には”取材”へと足を運び、書く。
両者の違いは、本垢と裏垢の違いみたいなものだ。

その「アカウント選定」が難しい。
どっちで書けばいいか、分からない。

ほんの軽い気持ちで書き始めたものが次第に「なるほど、これは奥が深いぞ」と思えてきて、だんだんnoteで公開したほうがいいように感じてくる。
反対に、noteで多くの人に読んでもらうために書き始めたものが途中で尻すぼみして「これ以上膨らませられねえな」となってお蔵入りしたりもする。

 

いい寿司屋は、ネタの仕入れに徹底的にこだわるという。
季節・天候・産地・漁獲量など様々な要因を考慮し、限られた予算の中で少しでも品質のいいネタを見極めていく。
そのためには仲卸業者との関係構築が欠かせないし、なによりネタを見極める観察眼がなければ話にならない。

書くうえでのテーマ決めも、似たような側面がある。
テーマの大衆性とか新奇性といった外部要因をふまえながら、特定の物事について「どんな角度で・誰に向けて・どのように書くか」を見極めていく。

ぼくの場合、今はとにかく量をこなしたい。いいネタを見極めるだけではなく、格落ちのネタも工夫を凝らして食べられるように自らの腕を上げていく必要がある。

店の料理と自炊の関係が、より近いかもしれない。
商品としての料理は、大前提として一定以上の品質を担保しなければならず、そのために食材・工程・味付け・装飾は徹底的に計算しつくされている。
一方で日常生活での自炊は、自分のため、身近な人ためだけになされる。様々な食材を気分に合わせて勝手気ままに料理する。
時にはアレンジを加え、未知の領域に挑戦してみる。多少の失敗はご愛敬で、その即興性と試行錯誤のプロセスにこそ自炊の楽しみはある。

もちろん、ネットの文章は不特定多数が閲覧可能であるから、リスク管理は怠ってはいけないのだけど。

 

ぼく含め「書くことを仕事にしたい」と考えている人は多い。
でも、実際に書いている人、書き続けている人はそう多くない。
誰かに話を聞いたわけじゃないから確かなことは言えないけど、ぼく自身「もの書いて生きたいなぁ」と思ってから実際に行動に起こすまで、約1年くらいのタイムラグがあった。

いや、本気で仕事にしたいと思ったら「まずはやってみる」しかないんじゃないか。

さっきのたとえじゃないけど、プロのライターって「作家」よりはむしろ「プロの料理人」に近いと思っている。
料理と同じように、書くのは誰にでもできる。ただそれを仕事にしようと思ったら、途方もない努力が必要なわけで。
でもプロの料理人もほとんどの人は趣味から始めたはずで、料理が楽しくてたまらなくて、作ったものを誰かに食べてもらって喜んでもらうのが嬉しくてたまらなくて、そうしているうちに自然にプロを目指すようになったんじゃないかなあ。

まあとにかく、ネタの良し悪しはあんま気にせずまずは書いてみる。ある程度出来上がって「お、こいつは上玉だぞ」と思ったらnoteで挙げればいいし、「正直しょうもないけど、見せずじまいにしておくのはちょっと勿体ないなあ」と思ったらはてなブログで挙げればいい。そんな感じかなあ。

なんだ。勝手に解決しちゃったよ。

 

ぼくは文章を書くとき「過去の自分に向けて書く」という裏テーマがある。
それはコンプレックスを救う目的であったり、狭まった視野を広げる目的だと勝手に思い込んでいたのだけど、つい最近「甘ったれた思考に喝を入れる」のも当てはまるよなあ、と思うようになって。
過去の自分のケツをひっぱたいてやろうと、ちょっと説教臭くなった次第なのです。

まあホントに冒頭に書いた通り、まだまだヒヨッコもヒヨッコだからなあ。
謙虚にやっていくしかないのですよ。