決意表明的な何か
明日にはもう、学生ではなくなる。
カラオケの学割料金はもう使えないし、国民年金を支払わないといけなくなるし、映画を見るにも1800円を支払わなければいけない。
大学時代は敗北ばかりだった。
サークルには馴染めず、勉強も真面目にやらず、恋愛はからっきし、就活は難航を極めたあげく、最後は半ば燃え尽きた形で終えてしまった。
唯一人より取り組んだことは散歩で、6年間歩き続けたおかげで山手線の内側は大体踏破した。
やりたいことはノートに殴り書きのままで、自堕落な日々ばかりが記憶に残る。
辛い記憶の味は苦い。そして、舌に永く残る。
楽しかった思い出の味は角砂糖のようにすぐに消えてしまうのに、挫折や失敗の経験は不快な後味を残し続ける。
特に後悔の念はいつまでも舌にこびりついて、なかなか消え去ってはくれない。
自分で思い起こして、いささかネガティヴが過ぎる気がした。
理想が高すぎるのだろう。
生きることに対して「正解」を求めすぎている。
誰の目から見ても間違いのない人生を、自分の力だけで勝ち取りたい。
そんな気持ちを未だに引きずっている。
それは劣等感の裏返しで、昔自分をバカにしてきた奴らの記憶が抽象化されたイメージとなって、俺の脳裏に残り続けているからだろう。
そもそも生き方に客観的な「正解」があると思っていること自体、自分の人生に他者からの承認を求めている証拠だ。
自分に自信がない。だから「お前はこれでいいんだ」って、誰かからお墨付きをもらいたいんだ。
思えば、大学時代はずうーっと、誰かに自分の存在を肯定してもらいたくて必死だった。
「自分らしくいたい、他人のことなんて気にしない」と口では言いながらも、内心では他人の視線に常におびえていた。
人に好かれるような自分でいたくて、でも自分には無理だと心のどこかで諦めていた。
結果、自分が本当にやりたかったことや挑戦してみたかったことに踏み出せないまま、時間だけが過ぎ去ってしまった。
現実には起きていないことに恐怖して、目の前にあったはずの楽しみを見つけられずにいた。
そうして残ったものは、後悔だけだったみたいだ。
過去に対する後悔の念と同じくらいに、「自分にはもう時間がない」という未来への焦燥が強くなってきている。
ぼくは間もなく25歳になる。四捨五入したらもう30だ。
遅くとも35歳までには、自分が生涯をかけて関わっていくフィールドに身を置きたい。
あと10年。時間がない。
今のままでは、到底間に合わない。
もっと鍛錬が要る。経験を積む必要がある。
もうこれ以上ウダウダやっている暇はない。
もうこれ以上後悔はしたくない。
そんな気持ちが足を逸らせ、心を騒つかせる。
過去を思えば後悔に苛まれ、未来を思えば不安に駆られる。
後悔や不安が生まれるのは、"今"以外の時間に着目しているからだ。
後悔は過去の損失評価であり、不安は未来のリスク評価。
どちらにせよ、今「この瞬間」には関係ない。
これまでの自分は、過去の損失や未来のリスクに過剰に囚われて「俺には無理だ」と戦う前から諦めてしまっていた。
自分の殻に閉じこもっているうちは、負けずに済むのかもしれない。
けれど、そうして何年も殻に閉じこもって久しぶりに外に出て目にしたのは、自分の遥か先にいる友人たちの姿だった。
誰もスタートの合図は出しちゃくれない。自分の意志で走り出すしかない。
その気づきを得るまで、ぼくは24年かかった。
大学時代を通じて、とにかく色んなことを考えた。
自分の内面のこと。人の心のこと。
今世界で起こっていること。
哲学や、ヒトの認知と解釈について。
文化の多様性と、そこから必然的に生じる「わかりあえなさ」。
経済のことと、「あるべき社会」の姿。
自分を見つめ直し、社会を見つめ直すうちに、それらをもっと知りたい、伝えたいという気持ちが湧き上がってきた。
その気持ちは、誰に強制されたものでもない、自分自身で築き上げたものだ。
だからこそ、そいつを唯一無二の「武器」に磨き上げていきたい。
クソッタレな世の中を自由に泳ぐための船として、鍛え上げていきたい。
そのために、過去も未来も今は見ない。
ただ、目の前の「やるべきこと」「できること」にだけ着目する。日々努力する。
それは仕事であって、書くことであって、家事であって、買い物であって、遊ぶことであって、女性と会うことである。
後悔を残さないために、不安に囚われないために、一日一日を「これ以上なかった」と言えるくらいの生き方をしてやるんだ。
生きる上で、何が正解だなんて分からない。
たぶん、生涯わからないのだろう。
けれど「今できること」「今すべきこと」なら、辛うじて分かる。
それだけを追い続けていこう。
今、この瞬間に着目するんだ。
毎日を「悔いのない1日だった」と胸を張って言えるよう、全力で生き続けてやるんだ。