中二病が治らない

そんな私の戯言です

エンドロール

仕事をし始めると、建前が大事になってくるみたいだ。
腹の底で思っていることと別のこと、時には真逆のことを、表に出す必要がある。
そういうことを繰り返していくと、次第に腹の底に沈殿した感情に目を向けることがなくなってきて、自分の本心が分からなくなってくる。
だから一般に共感されにくいようなことでも、いや共感されにくそうなことこそ、言葉にして遺しておくことが大事なんじゃないか、って思うこの頃である。

 

さて、真面目な話はこのくらいにして。 

 

先日、Netflixで映画を観た。

もともと動画サイトではあまり映画を観ない。注意力散漫な人間なので、すぐ他のことが気になって携帯をいじったり、ベッドで横になってうとうとしてしまう。同様の理由で、レンタルビデオ店で借りることもあまり多くない。だから映画を観る時はだいたい現場(映画館)に行く。
けれど、昨今の情勢的に現場にはちょっと行きづらいし、そもそも金欠で経済的余裕がない。
そういうわけで、普段あまりやらないお家シアターをやったわけなのです。

部屋の明かりを消して、ノートパソコンの画面いっぱいに映像を映す。
アウトドア用の椅子に腰かければ、ちょっとしたシアター気分だ。

本編が終わり、スタッフロールに入る。その時にちょっと気になることが。

Netflixでは動画が終わると、自動的に次の作品(話数連続ものの場合は次の話)に移動する仕組みになっている。
そのタイミングが、大体スタッフロールやエンディングに入るタイミングなのだ。

 

いや。

一つ言いたい。

クレジットを飛ばすんじゃねえよ!
ピクサーがクレジットで小枠アニメを挿入している意図を汲み取れ!
俺が心の底から軽蔑している行為を、俺にさせようとするな!

 

ぼくは映画館でスタッフロール中に席を立つ人が本当に許せないのだ。
意中の女性がこういうことをしたら、百年の恋も冷めると思う。
いやホントに。

 

ぼくはインターフェースに抗い、クレジットを最後まで流すよう操作を施した。
その映画に携わった人々の名前が流れる場面を眺め、あることに気づく。

あれ、俺そんな真剣に見てねえじゃん。

クレジットを観せようとしないUI設計に腹は立てど、肝心のクレジットの中身にはあまり注目していないのである。
作品を作り上げた方々に敬意を表するわけでなく、作品が出来上がるまでの労力に思いを馳せるでもない。ただただ、画面をぼうっと眺めているだけ。

 

そこでもう一つの疑問が浮かぶ。
なぜ俺は、クレジットの途中で席を立つ人間が許せないのだろう。

「クレジットを最後まで観ない」という理由で糾弾しているのなら、俺にその資格はない。
Netflixでアニメやドラマを見る時に、エンディングクレジットを飛ばすことがしばしばあるからだ。
あるいは「公共の空間で自分勝手な行動をする」ことにキレているのだろうか。
だとしても、自分がそこまで規範的な人間だとは思えない。どちらかというとこの怒りの源泉は、自分の快・不快に基づくものだ。

そうか。

ぼくは映画館でスタッフクレジットを最後まで観ずに離席する人間に怒りを感じるのか。

納得いく結論を導き出すと、ぼくは「戻る」ボタンをクリックした。

 

自分の感覚や感情は、雑に取り扱うべきではない。

ふと湧き上がってくる喜びや悲しみや怒り、あるいはそれ以下の違和感について安易に結論づけてしまうと、それ以上きめ細かく見ることをやめてしまう。

結果、感性のグラデーションがどんどん単色になっていって、ものごとに触れた時の感動が単調で、つまらないものになっていく。

だから、書き遺す必要がある。

それは自分の感性を守るために、必要な手続きなのだ。

 

クレジットも、もうちょっとちゃんと観ないとな。