中二病が治らない

そんな私の戯言です

ネタの見極め方

書くことへの悩みは尽きない。
ぼくのようなアマチュア以下のトーシロでさえも、だ。

 

特に最近は、何を書いたらいいか決めかねる。

 

何も思いつかないわけじゃない。アイデアを生み出す筋肉は日々鍛えているつもりだ。
だいたい、素直に「書くことが思いつかない」と書き出すのは愚の骨頂、ナンセンスの極み。
ニュース番組の冒頭で「今日はお伝えできるニュースがありません」なんて言おうものなら間違いなく炎上する。それと同じことをやってるわけで。

「いや、書くことが思いつかない苦しみを書きたいんだ!」
そう言いたいのだろう?気持ちはわかる。
だがそんなものは、自分だけが見れるノートか何かに書いておけばいい。
よく覚えておけ。特に具現化もされてないお前の頭の中の悩みなんて、他の人からしたらクソほどどうでもいいんだよ。

失礼。
過去の自分に向けて喝を入れていたら、横道にそれた。

 

目下の問題は「書くことがない」からもうちょっと先にあって、拵えたアイデアをどんなふうに料理するかってところだ。

ぼくは今、2つのプラットフォームを並行して使っている。noteの方では余所行きの、計算された、人に読ませるための文章を目指して書いている。こっちは割と行き当たりばったりというか、実験場、ガレージ、がらくた箱みたいな感覚で運用している。

文章を書く流れはどちらも変わらない。日ごろの思考や感情を膨らませてテーマを決め、構成を考える。必要な知識をインプットし、時には”取材”へと足を運び、書く。
両者の違いは、本垢と裏垢の違いみたいなものだ。

その「アカウント選定」が難しい。
どっちで書けばいいか、分からない。

ほんの軽い気持ちで書き始めたものが次第に「なるほど、これは奥が深いぞ」と思えてきて、だんだんnoteで公開したほうがいいように感じてくる。
反対に、noteで多くの人に読んでもらうために書き始めたものが途中で尻すぼみして「これ以上膨らませられねえな」となってお蔵入りしたりもする。

 

いい寿司屋は、ネタの仕入れに徹底的にこだわるという。
季節・天候・産地・漁獲量など様々な要因を考慮し、限られた予算の中で少しでも品質のいいネタを見極めていく。
そのためには仲卸業者との関係構築が欠かせないし、なによりネタを見極める観察眼がなければ話にならない。

書くうえでのテーマ決めも、似たような側面がある。
テーマの大衆性とか新奇性といった外部要因をふまえながら、特定の物事について「どんな角度で・誰に向けて・どのように書くか」を見極めていく。

ぼくの場合、今はとにかく量をこなしたい。いいネタを見極めるだけではなく、格落ちのネタも工夫を凝らして食べられるように自らの腕を上げていく必要がある。

店の料理と自炊の関係が、より近いかもしれない。
商品としての料理は、大前提として一定以上の品質を担保しなければならず、そのために食材・工程・味付け・装飾は徹底的に計算しつくされている。
一方で日常生活での自炊は、自分のため、身近な人ためだけになされる。様々な食材を気分に合わせて勝手気ままに料理する。
時にはアレンジを加え、未知の領域に挑戦してみる。多少の失敗はご愛敬で、その即興性と試行錯誤のプロセスにこそ自炊の楽しみはある。

もちろん、ネットの文章は不特定多数が閲覧可能であるから、リスク管理は怠ってはいけないのだけど。

 

ぼく含め「書くことを仕事にしたい」と考えている人は多い。
でも、実際に書いている人、書き続けている人はそう多くない。
誰かに話を聞いたわけじゃないから確かなことは言えないけど、ぼく自身「もの書いて生きたいなぁ」と思ってから実際に行動に起こすまで、約1年くらいのタイムラグがあった。

いや、本気で仕事にしたいと思ったら「まずはやってみる」しかないんじゃないか。

さっきのたとえじゃないけど、プロのライターって「作家」よりはむしろ「プロの料理人」に近いと思っている。
料理と同じように、書くのは誰にでもできる。ただそれを仕事にしようと思ったら、途方もない努力が必要なわけで。
でもプロの料理人もほとんどの人は趣味から始めたはずで、料理が楽しくてたまらなくて、作ったものを誰かに食べてもらって喜んでもらうのが嬉しくてたまらなくて、そうしているうちに自然にプロを目指すようになったんじゃないかなあ。

まあとにかく、ネタの良し悪しはあんま気にせずまずは書いてみる。ある程度出来上がって「お、こいつは上玉だぞ」と思ったらnoteで挙げればいいし、「正直しょうもないけど、見せずじまいにしておくのはちょっと勿体ないなあ」と思ったらはてなブログで挙げればいい。そんな感じかなあ。

なんだ。勝手に解決しちゃったよ。

 

ぼくは文章を書くとき「過去の自分に向けて書く」という裏テーマがある。
それはコンプレックスを救う目的であったり、狭まった視野を広げる目的だと勝手に思い込んでいたのだけど、つい最近「甘ったれた思考に喝を入れる」のも当てはまるよなあ、と思うようになって。
過去の自分のケツをひっぱたいてやろうと、ちょっと説教臭くなった次第なのです。

まあホントに冒頭に書いた通り、まだまだヒヨッコもヒヨッコだからなあ。
謙虚にやっていくしかないのですよ。