感性を殺さないために
昔からの癖か、きたる環境の変化を思ってのことか、心のどこかの不安をぬぐい切れない日々が続いている。
正直、働くことが怖い。
長時間の残業とか社内の人間関係とか、適応障害とかドロップアウトとか、不安の原因はいろいろある。
けれども、上に述べたものは言っても外的要因だから、なんだかんだいって最終的には何とかなるだろう、という根拠のない自信がある。
本当に怖いのは、内的要因の方だ。
働き始めていくと、活動時間の大半を仕事の中で過ごしていくことになる。
そうすると必然的に、思考のメモリに占める仕事の割合も大きくなっていく。
そしてそれは相対的に、興味のある学問とか気になっている映画とか、世界に対する根源的な問いとかみたいな、必要性は薄いけれども魅力的な思考の存在が相対的に小さくなる。
結果、興味の幅が縮まり、あらゆるものに無感動になってしまうのではないか。
「想像力が足りない」と批判していた誰かの言葉を、自分の口で言ってしまうのではないか。
ぼくは、働くことで自分の感性が死んでしまわないか、それが一番怖い。
最近見た映画『花束みたいな恋をした』でも似たようなシーンがあり、ぼくの不安はさらに現実味を持ったものとして迫ってきた。
菅田将暉演じる青年が恋人との生活のために就職したことを機に、忙しさと環境の変化の中で、それまで大事にしていた映画や音楽その他ポップカルチャーへの興味を失い、ついにはかつて批判していたような人の言葉を自分から口にするようになっていた。
今さっき「感性が死ぬ」と言ったが、少し間違っていたみたいだ。
感性は勝手には死なない。
忙しい日々の中で、自分自身で殺すのだ。
他の誰でもない自分の意思で、自らの感性を使うことを放棄するのだ。
生きるためには働かなければいけない。
年を取るごとにどんどんと「考えなきゃならないこと」が増えてきて、経験と責任が重く圧し掛かってくる。
けれども、同時に自分の感性を殺さないように、何とかうまくやっていくことはできないのだろうか?
そのためには毎日少しでもいいから、思う存分感性を働かせる時間を、無理やりにでも確保することが必要なのだと思う。
帰りの電車でTwitterを眺める代わりに本を読んだり、週に一度は映画を観たり、月に一度は美術館に行ったり、あの手この手で感性を生かす試みを続けるべきなんだろう。
毎日ブログをアップし続けているのも、その一環っちゃあそうだ。
それもまた、一つの努力といっていいのではないか。
ここまで書いてなんだが、正直、どうしてこんなに自分の感性を大事にしたいのかがよくわからない。
人の心なんて曖昧なものだし、仮に変わってしまったとして、しばらく経てば何事もなかったかのように慣れてしまうのが人の性というものだろう。
それでも「大事にしたい」と思うのは、多分理屈では説明できない。だからこそ、とても大切なことのように思える。