口実としての教養
いつごろからか「教養」という語をタイトルに含む本が増えた。
「教養としての〇〇」に当てはめられる単語は、ほんとうに多岐にわたる。
世界史、物理学、経済学、憲法、アート、プログラミング、落語、ワイン、ラップなんてものもある。
この手の本は買うことはおろか立ち読みすることもほとんどないのだが、(おそらく)ブームの火付け役だと思われる『1日1ページ、読むだけで身に付く世界の教養365』は一度手に取ったことがある。ページをパラパラとめくり10分ほど眺めたあと「これ、高校の教科書で十分じゃん!」と思って、それ以降この手の本に目を向けるのはパッタリ止めにした。
こうした本の中に、本当にためになる良著がまぎれている可能性は否定しない。
だとしても、「教養としての~」みたいなタイトルを誇らしげに引っ提げている書籍の存在を、ぼくはあまり歓迎していない。
というより、教養を「役に立つもの」としてプラグマティックに手に入れようとするあさましい欲望が、本の形を借りて顕現していることに我慢がいかない。
たかだか数冊の本を読み、断片的な知識や雑学をこしらえたくらいで教養が身に着けられると嘯く厚かましさ、またそうしたものをありがたがる消費者の横着さが目に余る。
「教養」とは、いったい何だろうか。
「あの人には教養がある」と言うとき、その人物が有している資質とは何なのか。
ぼく個人の考えを言えば、教養とは「知の履歴書」のようなものだ。
何を考え、何をどのように学んできたか。
どんなことに興味を持ち、どんな書に触れたか。
何を知りたいと思い、誰に話を聞いたか。あるいは、どこへ足を運んだか。
この世に生まれ落ちてから今日までに積み重ねられたあらゆる知的営為が、樹木の年輪のようにその人自身の見識と風格を形作る。
「いろんな物事をたくさん知っている」ことは、あくまでそうした知的営為の副産物でしかない。本質はもっと別なところにある。
それに、本当に教養を備えた人物は、自分から「教養があるかないか」なんてことは口にしない。
教養は醸し出すものであり、ひけらかすものではないからだ。