中二病が治らない

そんな私の戯言です

ネガティブのすすめ

ツツガムシ病という感染症がある。ダニの1種であるツツガムシに噛まれることで感染し、38~40度の高熱や全身の発疹、頭痛や倦怠感などの症状が現れ、ひどい場合は肺炎や脳炎などを併発し死に至る危険もある。近年は日本のほぼ全域で症例が見られるようだが、伝統的には東北地方で流行する風土病であった。

子どものころ、ぼくはこのツツガムシ病に感染していたと思い込んでいた時期がある。
小学4年の夏休みに東北へ家族旅行に行った後、ひざの裏に見慣れない、虫の噛み跡のような斑点を見つけた。それがちょうど、保健室の掲示物に描かれていたツツガムシの噛み跡の写真に類似していたのだ。
ぼくは旅行中、知らないうちに噛まれたのではないかと疑うようになった。その不安は段々とエスカレートしていき、しまいには自分はもうすぐ病気で死ぬのだと両親に泣いて訴えた。
帰ってきたのは「いい加減にしろ!」という父の怒鳴り声だった。

 

心配性な人間、ネガティブな人間というものはやはり一定数存在するらしく、自分がそちら側の人間なのだろうと気づいたのは人生のかなり早い段階だった。「一定数存在する」と言い切れる根拠は、ぼくが普段感じている不安や自身のネガティブな気質に対して、少なくない人数の人たちが一定の共感を示してくれたことに由来する。
とはいえ、こうした気質が一切理解できない人も当然一定数存在するわけで、そうしたタイプの人たちからはときどき「あなたは訓練が足りないだけで、努力すればきっと(私たちと同じように)ポジティブな人間になれるよ」というお言葉をいただく。

海水魚のカツオが淡水魚であるコイに対して「あなたが海水に馴染めないのは努力が足りないからよ」と言ったら、それは間違いなくナンセンスだろう。しかしその一方で「あなたがネガティブなのは努力が足りないからよ」という理屈はなぜだかまかり通る。それは、「思考は習慣によって変えることができる」という世界観が、われわれの間に広く浸透しているからではないだろうか。
事実、人の気質をポジティブとネガティブに二分する考え方は「引き寄せの法則」に代表される自己啓発の文脈から発展したものらしく、さらにもとをたどれば19世紀にアメリカで興ったキリスト教の異端思想に由来するという。

このことを知って「要は信仰の問題なのかよ!」と拍子抜けてしまった。

 

とはいえ、たかが信仰、されど信仰。人の想いの力はバカにならない。

ネガティブ思考が強い人は、「自分はネガティブなのだ」という認識をおのずから加速させていき、最終的に大きく認知をゆがませてしまいがちだ。
そしてこの傾向は、ものごとがうまくいかないときに顕著に表れる。

ぼくの場合、何か一つ失敗や挫折があったりすると、まずそのことについて深く考え始める。なぜうまくいかなかったのだ、とか、いったい自分の何がいけなかったのだ、みたいに。次に、思い通りにいかなかったのは自分の能力が足りなかったせいだ、などと、失敗の原因を自分自身に求め始める。やがて「俺はダメな奴だ」だとか「無能な怠け者だ」というように自己否定をし始める。
ここまでくれば、もう一切の歯止めは利かなくなり「自分はこれから先の人生堕ちていくだけだ」とか「最後には自分は誰からも顧みられず野垂れ死ぬのだ」というように、現実を大きく超越した被害妄想をただただまくしたてるモンスターが一匹誕生する。
自分のことながら、この底無しの想像力には感嘆する。

 

不安や恐怖といったネガティブな感情は誰しもに現れるものであり、外からの刺激に対する生理的な反応だ。それゆえ、ネガティブな感情を完全に制御することはほとんど不可能に近い。
心理学の観点から言えば、ネガティブな感情を抑制し精神の安定をはかるためにはセロトニンという物質が重要だという。人間はセロトニンの分泌量が持っている遺伝子によって違うらしく、結果遺伝子レベルでネガティブな感情を感じやすい人と感じにくい人が存在するらしい。そこまで行ってしまったら、もう個人の力ではどうこうできないレベルなんじゃないかなーとも思う。

 

 

ぼくは長い間、自分の中にあるネガティブな感情の中に成長のカギがあると信じ切っていた。
自分の中にある不安や恐れ、悲しさや悔しさといった感情の原因を解明していけば、そうした感情を克服できると思っていた。
そのためにネガティブな感情を積極的にキャッチしていっては、理性と主体的な行動をもってそれらを乗り越えようとしていたのだ。

しかし、こうした努力は笑ってしまうくらいに実を結ばない。
ネガティブな感情を一つ乗り越えたと思っても、ふとしたことをきっかけにまた新たなネガティブの種が表れてきて、同じようなことで何度も悩む。
賽の河原で永遠と石を積み上げるかのように、同じようなことを何度も繰り返して、次のステージになかなか進まない。
そうしている間に、周りの同世代の人たちは順調に経験を積んで次のステージに進み、気づけば自分だけが取り残されていた。

そこでようやく気づく。
ネガティブな思考はワリが悪い。

ネガティブに囚われることはRPGでいう状態異常みたいなもので、自らネガティブな感情について考えて生きることは、言ってしまえば縛りプレイだ。
ネガティブな思考は決断をためらわせ、足取りを重くし、思い切りを悪くさせる。
ネガティブ思考の人間がうんうんと頭を抱えながら一歩一歩進んでいる間に、そうでない人間はいくつも行動を重ねて、失敗と成功を繰り返し経験値を積み重ねていく。
もちろん、怒りやくやしさのような負の感情は自らを突き動かす原動力になる。だがそれも最初の一押しだけで、継続的に行動を積み重ねていくとなるとネガティブな感情はむしろジャマになることの方が多い。

ぼくはずっと縛りプレイで人生をやっていたのだった。それも意図せずして。

縛りプレイを否定するつもりはないが、自分自身が楽しくない縛りをわざわざ続けることもないだろう。
そう思った瞬間に、「考えすぎだよ」というアドバイスの真意が理解できた。

 

感情はコントロールできないが、思考はコントロールできる。

ネガティブな感情がダメなのではなく、ネガティブな思考に囚われるのがダメなのだ。

自分の体験から、ネガティブな感情をキャッチして考え始めると頭のなかで恐れや不安がどんどん肥大していって、最終的にはネガティブな思考で何も手につかなくなる。
肝心なことは、ネガティブな感情を拾わないことなのだ。