中二病が治らない

そんな私の戯言です

読まれる文章を書くためには?

「今月こそnoteでの情報発信を本格的に始めたろ!」と思い、前々から温めていた草案を形にしようとしている最中である。

はてなブログじゃなくnoteを頑張る理由は至ってシンプルで、noteのほうが反応をもらいやすいからだ。
直接面識のない人のアカウントから「いいね!」がつくのは正直嬉しい。しかも向こうは記事にハッシュタグで紐づけができるので、見つけてもらいやすさもこちらで書くよりずっと高い。

要は、自分の文章をこうしてネットに晒すのも慣れてきたので、次はもっと多くの人に読んでもらいたいと色気づいているわけだ。
露骨に言えば、もっと「いいね!」が欲しい。

人は本当に欲深い生き物で、ある願望が満たされると次はより高次の願望を求めてしまうものなのである。ぼくもまた例外ではない。

 

さて、上に書いた願望をかなえるためには、不特定多数の人に読んでもらうことが前提となる。
ここで「面識のない人に自分の文章を読んでもらう確率を高めるにはどうしたらいいか」という問題が生まれる。それが悩みどころだ。

 

人がなにがしかの文章を読むのは、その時当人が抱えている課題の解決を期待しての行動だ。
丸の内線で池袋から後楽園まで移動するときにネットで適当な記事を読むのは、乗車時間の数分の暇をつぶすためである。新しく買った洗濯機の使い方を覚えるためには同梱された説明書を読み込むし、週末に観に行く映画の評判を調べるためにはFilmarksのレビューに目を通す。晩御飯にタンドリーチキンを作りたいと思ったら料理本クックパッドでレシピを確認し、人生の意義を知りたいと思ったら図書館に行って分厚い哲学書を開いてみる。

いうなれば、文章は課題解決の手段である。
よく読まれる文章は、それだけ普遍的な課題に寄り添ったものである場合が多い。そしてそれはだいたい「儲けたい」「モテたい」「癒されたい」のいずれかだ。
あと、読者の課題が「その人の書く文章が読みたい」だった場合。これは最強だ。
文章自体が手段となり、目的となる。村上春樹東野圭吾、あるいは糸井重里あたりはこの領域に達していると思う。まあでも到底凡人がたどり着けるものではない。
たぐいまれな才能を持った書き手が何年も書き続けて、ようやくたどりつける境地だろう。

 

つまり、自分の文章を読んでもらう方法を考えることは「その文章は、誰のどんな課題を解決できるか」を考えることに等しい。
もっと突き詰めれば「その文章が読者に提供できる価値は何か」、それをはっきりと定義しなければいけない。

 

ぼくの文章が提供できる価値、いったい何だろう。


小説家のような情緒に訴える表現や巧みな言葉遣いができるわけでもないし、オモコロのライターのような洗練されたユーモアのセンスを持ち合わせてもいない。
あるいは10代に人気のインフルエンサーのように知名度があるわけでもなく、学者や専門家のように高い知識や見識を有しているわけでもない。

こうつらつらと書いていると「これもうなんもねぇじゃん!」とネガティブな気持ちになってくる。

 

こういう時は発想を転換させる。
読み手はなんらかの課題を解決するために文章を読むわけだから、逆に書き手はなんらかの課題に対する答えを提示していることになる。

その課題はどこからやって来て、答えはどのようにして生まれた?
前者を明らかにすることがテーマを決めることであり、後者を記すことが内容を決めることではなかろうか?

 

方針が大分見えてきた気がする。

何の特徴もない書き手が価値を提供する方法、それは書き手自身が向き合ってきた課題とその答えを提示することである。
そして書くことでまた、自身の持つ課題意識がよりクリアになってくる。それをまた文章に落とし込めることで、正のスパイラルを巻き上げていくことになる。

「読み手にメリットを提示しなきゃ!有益なことを書かなきゃ!」と意識しすぎると、安易なメソッドや方法論に帰結してしまう。
それ自体は否定しないが、個人的にはメソッドに終始した文章はすきじゃない。面白みがない。
合理性を突き詰めていくと、遊びがなくなる。区画整備された公共住宅を見ているみたいだ。

できれば、ユーモアやエモーションを交えつつ、読む人が何かしら役に立つものを持って帰ってくれる、そういう文章を書けるようになりたい。

 

とまあ長々と考えていたわけだが、100%自己満で書いたものを見てもらいたいという欲求も否定できないわけで。
人様を不快にしたり迷惑をかけたりはご法度だけど、そういったものを吐き出せる場もあるといいよね。
ぼくにとっては、ここで書くことがそれにあたるわけだけど。