中二病が治らない

そんな私の戯言です

原体験とは何か?

就職活動をやっていたときに「あなたの原体験は何ですか?」とよく問われた。

その場面はだいたい、どこかのベンチャー企業が運営してる新卒学生向けサービスで何らかのワークを受けているときだった。

そうしたサービスにお世話になるときはだいたい就活がうまくいっていなかったから、昨日まで名前を聞いたことがないような会社でも蜘蛛の糸のようにありがたく感じられた。

けれど困ったことに、確かにそのときは「これは紛れもなく自分のものなんだ」と胸を張って言えたはずの「原体験」を、今やさっぱり覚えていないのである。

結局、一時の気休めに過ぎなかったのだろうか?

 

 

「原体験」という言葉の定義を辞書で引くと、以下のように出てくる。

その人の思想が固まる前の経験で、以後の思想形成に大きな影響を与えたもの。

参照:デジタル大辞泉(小学館)

これを見ると、ある人の価値観や世界観を形作る核となった経験、と読むことができる。

 

その語源ははっきりしない。

アカデミックの分野では、原体験という言葉はほとんど使われていないようだ*1

当該の単語が使われるているのがもっぱら就活やビジネス(特にベンチャー界隈で顕著)であることから、そのあたりで自然発生的に用いられるようになった可能性が高い。「何某さんは学生時代に不登校を経験したことが原体験となって起業した」とか「大学2年生の時にアメリカに留学したことが原体験となり、私は〇〇業界を志望します」みたいな感じで。

 

 

「ある人にとっての原体験」と表現するとき、それはその人の過去の経験に基づいた記憶であるわけだから、どうしても原体験は個人のアイデンティティを結びつけられがちだ。

けれど、それは非常に危険な考え方でもある。

 

「自分のアイデンティティを確立するうえで、その大元には何か原点となる記憶があるはずだ。もさないのであれば、それは思い出せないだけだ」
就活の場面において、なんとかしてアピール材料となるような原体験を探そうとする学生は(自分含めて)とても多い。それこそ、中にはそれが見つからないことを気に病んでしまう人がいるくらいに。

 

個人のアイデンティティと結びつけて考えられるとき、原体験はそれぞれの個人に先天的に与えられたもののように感じられる。
けれど、なにかを経験した記憶はすべからく後天的に獲得したものであり、したがってあらゆる原体験も後天的なものだ。当然、全ての人がその後の当人の運命を規定してしまうような強烈な経験を有しているとも限らない。

もっと言ってしまえば、原体験なんて後付けの拵えものだ。

何か行動を起こして、その理由を探っていったらたまたま過去にこんな経験がありました〜。思い起こせばこれが今の自分の原点だよね〜、みたいな。

 下手に原体験と自分らしさみたいなものを結びつけて、「俺という人間を形成する経験は何だ、いったい何なんだぁ〜!」なんて当てのない自己探求の旅に出かけてしまったが最後、迷走に迷走を重ね、挙げ句の果ては骨折り損のくたびれもうけ、なんて事は想像に難くないだろう。

それを大真面目にやっていたずらに時間を過ごしてしまったのが以前のぼくなわけで、、、ああ恥ずかしい。

 

 

思うに、原体験は「動詞」と結びつけられるべきだ。

何か新しく行動を起こしたい時や、今一生懸命に続けていること。

「なぜそれをやりたいのだろう?」「どうしてこんなに頑張れているのだろう?」と掘り下げていくと、過去のどこかの出来事や強く心が動かされた経験に出会うだろう。

それが、あなたが何かをする原体験であり、原動力ではないのだろうか。

ぼくは野球を小学校から高校まで続けていた。かなりの運動音痴で体力テストの成績も良くなかったのによく続けられたな、と我ながら思う。
けれど改めて思い返してみると、始めたばかりの頃に練習でミスばかりして、チームメイトから責められたりバカにされたりした記憶が強く印象に残っている。
「上手くなるまでは絶対にやめねぇぞ!」と思って続けていたら、高校生まで続いちゃったのだ。

野球を続けていくうえでのぼくの原動力は「自分をバカにした奴らを見返す」ということで、その原体験は野球を始めたばかりのころの苦い思い出だったというわけだ。

 

何かを続けようとすると、どうしても「何でこれやってんだろう?」とか「自分で勝手にしんどくして、バカなんじゃないのかな」とネガティブな気持ちになることも必ずある。

原体験というものがあるとすれば、辛い時や苦しい時に初心を思い出すというか、最初に定めたところへ目線をリセットさせるはたらきがあるんじゃないのかね。

 

そう考えれば、就活の時に考えた原体験を思い出せないのも当たり前ではある。それはもう使わないからね。

*1:児童教育や環境教育の分野では「原体験」という言葉が用いられることがあるが、意味が異なる。そちらの方は、自然の質感や匂いなど、五感を通じて自然と触れ合う体験のことを指す。