その知識、本当に役に立つの?
大学生になったくらいから、TOEIC〇〇点以上とっておけとか、簿記などの資格をいくつか取っておけとか、父から口酸っぱく言われている。
理由を訊けば「社会人になった時に役立つから」の一点張りだ。例えばTOEICのスコアが900以上あれば海外で仕事ができる可能性が上がるとか、簿記2級持っておけば経理職での活躍を期待して雇ってもらえるかも、みたいな感じで。
その一方で自分が興味のある言語学とか認知心理学といった分野の勉強をすると、「そんなもの何の役に立つんだ」「それは趣味の範疇だろ」なんて言ってくる。
似たようなこと前にもあったなぁと、過去の記憶をほじくり返してみる。
確か高校時代の進路希望の面談の時だ。当時の自分は行きたい大学ははっきり決まっていたのだけれど、学びたいことはぼんやりとしか決まっていなかった。歴史の授業が一番好きだったしテストでもいい点が取れていたので、歴史を学びたいなぁなんて何となく思っていた。そのことを世界史の教科を担当していた担任の先生に話すと「人文系の学部は潰しが利かないから就職の時大変だよ」と言われて途端に躊躇してしまった。結局は「とりあえず就職の時に有利そうだから」という理由で、あまり興味のなかった経済学部を進路希望書には書いた。
今の世の中はいささかプラグマティズム*1に依りすぎている気がする。
とにかく「すぐに役に立つ」ことを大事にしていて、まるで頭痛の時にロキソニンを飲むみたいに、知識や学問を目下の課題を解決するためにインプットしている人が多いように感じる。
Webメディアでは「ビジネスに役立つ東洋思想!」みたいな記事が乱立していて、youtubeでは「今すぐわかる戦後日本」のような解説動画の再生数が伸びている。本屋には「一冊で身に付く世界の教養」なんてたぐいの本が所狭しと並べられている。教養なんてものはワインみたいに長い時間をかけてじっくりと熟成させていくもんだと思ったのだけど、そいつを手早く身に着けよう、っていうのはどうなんだろうと思ってしまう。
確かに、社会人になったら自由に使える時間なんて限られているだろうし、費用対効果を考えればそうした「すぐに役立つ知識」がもてはやされるのも当然の帰結だろう。
それでも、家電を買うみたいな感覚で知識をインプットすることは、「得た知識をどのように活用させればいいのか」という思考を放棄しているような感じがする。
そもそも「役に立つ」ってなんだ。仕事を円滑に進めることだろうか。市場評価を高めることだろうか。専門性を身に着けることだろうか。それとも真理を追究するためだろうか。
目先の有用性を意識しすぎて、そもそもの目的を理解していないなんて状態には陥っていないだろうか。
ぼくは「すぐに役に立つ知識」みたいな考え方がどうも好きになれない。
むしろ「あんたらの役には立たないかもしれないが、俺の役には立つんだ!」くらいの勢いでもって、もっといろんなことを学んでいきたい。