中二病が治らない

そんな私の戯言です

「わかりやすい」の危うさ

文章を書くとき、いちばん大切なこと。
それは豊富な語彙でも豊かな表現力でもなく「わかりやすさ」だ。

簡易平明であること。小学生でも理解できるような内容であること。
わかりやすいことは、何にもまして強力な武器になる。
そこに「すぐ読み切れる」手軽さが加わればなおよしだ。

反対に、どれだけ並外れた知見や見解を文章にしようが、難解さのあまり文意が理解されなければその価値は十分に評価されることはない。

「わかりやすいは正義」と断じても、言い過ぎではないだろう。

 

今、巷には「手軽でわかりやすく、役に立つ」コンテンツがあふれかえっている。

ビジネス書(個人的にはこれでも十分わかりやすいのだが)のコミカライズに始まり、過去の名作や古典をわかりやすく解説したyoutube動画、ある学問の要点と結論だけを簡単に示したネット記事。
「ネットを見ればわかりやすい情報が無料で簡単に手に入るから、学校に行かなくてもいい」と主張する人も中にはいる始末だ。

これだけ多くの「わかりやすい」が供給されているのは、それだけわれわれ消費者が咀嚼しやすいコンテンツを求めているのだろう。

たしかに、電車の移動時間だけでサクッと消費しきれる情報や、一日動き通しで疲れた頭にもすうっと入ってくる情報がもてはやされるのは、肌感覚としてよくわかる。
実際、ぼくもこの手の解説動画とか解説記事をけっこうな頻度で見たりもする。

 

しかし、同時に思うのだ。
飲み込みやすい情報に過度に依存するのは、危険なことだ。

 

気づかないうちに、貧困に陥るおそれがある。

ここでいう貧困は、文化的な意味での貧困をさす。知性の減衰、あるいは想像力の欠如と言い換えてもいい。

 

わかりやすい情報とは「それを理解するためにかかるコストが少ない情報」である。
反対に、わかりづらい情報はその内容理解に大きなコストを要する。

ここで注意してほしいのが、情報の理解のしやすさは、その情報が持つ有益性には一切の影響力を持たないということだ。

数学の授業を思い出していただきたい。パッと見ただけでは意味がわからない数式や定義が矢継ぎ早にあらわれて、「もう自分には無理だ」と途中で投げ出した方も少なくないのではないだろうか。中には「数学なんて仕事では役に立たないから意味ないだろ!」と恨み節を吐いたりも。
だが、われわれの生活に欠かせない工学やコンピュータ・サイエンスの世界では高等数学の素養が必須である。数学の知識は、直接ではないにしろ大いに役に立っている。

「わかりやすいかどうか」と「役に立つかどうか」は、全く別の問題なのだ。

 

分かりやすい情報ばかりが拡散され選択されることの危険性。

それは噛みやすく飲み込みやすい情報だけを摂取することで、読み手の理解力が下がってしまうこと。
分かりづらい情報に対する粘り強さがなくなり、簡単に分かるものばかりを無批判に受け入れてしまう。目に見えるものだけが全てだと思い込み、書かれていないもの、語られていないものに対する想像力が失われてしまう。

 

この傾向はちょうど、食べ物の咀嚼にたとえられる。
弥生時代の日本人は、一回の食事につき約4000回噛んでいたという。そこから一回の食事にかける咀嚼回数は時代が下るにつれてどんどん少なくなり、現代では約600回まで減少したといわれている。
戦前の日本人が約1400回だったことと比較しても、その減り具合は顕著だ。
食事の時間にも変化がある。弥生時代には1時間かけて食べていたのが、戦前には20分、現代では10分程度まで減少した。

昨今の「わかりやすく理解しやすい情報」があふれている状況は、まさに「よく噛まなくなった現代の日本人」とリンクしているように思えてならない。

 

咀嚼数が減少すると顎が十分に発達できなくなり、歯並びの悪化や運動能力の低下につながるほか、唾液が十分分泌しないことによる消化不良や、肥満のリスクも増大させる。
また、老年期以降の咀嚼力の低下は、認知症のリスクを増大させるともいわれている。

食べ物を十分咀嚼しないことによって弊害が起こるように、わかりやすい情報ばかりを摂取することの負の側面が、これからどんどん顕在化してくるような気がする。

 

ここからはさらに私論に依るが、ここまで「わかりやすい情報」ばかりがもてはやされる背景として「すぐに役に立つもの」への過剰な傾倒があると考えている。

科学技術は日進月歩で発展し、便利で使いやすいサービスは日ごと新たに増えていく。
レンタルショップに行って借りなければ見られなかった映画は今やNetflixでいつでもどこでも見られるようになり、本屋をはしごしてようやく見つけられるような本もAmazon電子書籍で簡単に手に入る。そういう時代にわれわれは生きている。

世の中が便利になると、同量の効用を得るために必要な時間が減る。しかし時間は増えるわけではないから、どうしてもその効率化はどこかで頭打ちになる。
そして、便利さによる効率化の限界点が来たときに、人々が考えること。

「同じ情報を同じやり方で、より容易に、短時間で摂取できないか」

その結果、わかりやすい情報にアクセスは集中する。より手っ取り早く、手軽に咀嚼できるインプットの方法を編み出そうとする。

昨今、映画を早送りで見る人が増えているという。
こうした行動様式の変化とビジネス本のコミカライズは、根底でつながっていると思う。

「より便利に、手っ取り早く、楽して大きな収穫を得たい」という心理が、わかりやすさへの過度な傾倒の背後に横たわっている。

 

こうした心理を批判する気は毛頭ないし、する資格もない。

人間は元来怠惰な生き物であるし、「楽をしたい」欲求にしたがって科学や技術が発展していったのは紛れもない事実だ。

そのうえで、あえて言う。
「わかりやすい情報」にばかり触れているのは、危険だ。

 

ヒトはかつて狩猟・採集を行い、自給自足で暮らしていた。農耕・牧畜が発明されたことでヒトは同じ場所に定住するようになり、食材を自分で確保しないで済む人間が生まれた。
産業革命以降産業の組織化が進み、人間は食物をつくる生産者と、一方的に摂取する消費者に分かれた。今やこの二分化は国家レベルで進み、日本のように自力では国民の食糧を確保できない国々も多く生まれている。

「便利さ」の発展は、確かに人類レベルで多くの恩恵をもたらした。
しかし個人レベルで言えば、便利さによって自給自足でのサバイバル能力が失われてしまった。

現代において、食べられる草や木の実を判別できる人はほぼいないだろう。獣の狩り方や魚の捕り方を知っているひとも少数派のはず。
ぼくだって、身一つで無人島に放り込まれたらひと月持たずに餓死する自信がある。

 

「わかりやすい」に依存しすぎると、知的にサバイブする力が失われてしまいそうな気がする。

難解で、わかりづらくて、咀嚼に時間がかかる情報は、確かに難しいしめんどくさい。
途中で「わかりづらいわこれ!」と何度もシビレを切らすし、途中で投げ出したくもなる。

けれど、パッと見ただけで理解できないものに体当たりで向かっていく中で、ものごとをよく考えるようになる。
「これはどういう意味なんだろう?」「この内容は現実に当てはめると、どういう場合に該当するんだろう?」というふうに、問いを自分で生み出せるようになる。
「ここに書いていることは、もしかしたらこういう意味なんじゃないか?」という仮説が出せるようになる。
「ここの〇〇は、前に見た△△とつながってるぞ!」というように、異なる情報同士をつなぎ合わせたり、新たな気づきや発見ができる。

わかりづらい情報に触れることで、注意深く考える力が養われる。

 

あるものごとに対して「わかった」と納得することは、そのものごとに対する判断を停止することだ。
「この物事については、こういうことだと理解した」と認識を確定させて、それについてこれ以上考えることをしなくなる。

それ自体は脳のリソース配分を考えれば自然なことなのだが、この「判断を停止させる」というのが非常にヤバい。

考えるのと同時に、疑うこともやめてしまう。

わかりやすく耳障りいい情報で手っ取り早く「わかったつもり」になることで、その物事に対する別の考え方や、より深い理解に向かおうとする意識はごっそり奪い取られてしまう。
判断の停止は情報の無批判な受容につながり、真実と欺瞞を判別する力がなくなる。

 

先程も述べたように「わかりやすさ」と「有益さ」は全く別の評価軸だ。

けれどもし「わかりやすさ」を重要視過ぎて、「有益さ」を棄却することになったら?

その飲み込みやすさゆえに、無益などころか有害な理論を無批判に信じるようになったら。

ぼくは怖い。
わかりやすさに流されて、善悪の判断に無頓着になることが。
自分でも気づかないうちに、とんでもない暴論に肩入れしてしまうことが。

 

「手軽でわかりやすく、ためになる」コンテンツが支持される状況は、今後も続いていくだろう。
ぼくが何と言おうとビジネス本のコミカライズはなくならないし、youtubeの解説動画はこれからもどんどん増えていくだろう。

それがいいとか悪いとかではなく、時代の趨勢だ。

 

けれども、ぼく個人としてはこの流れに、ささやかながら抵抗していこうと思う。

カントの『純粋理性批判』を今読んでいる。初めて手に取ったのは大学2年生の時で、当時は書かれていることが全く理解できずに10ページを持たずして本を閉じてしまった。そこから数年の月日を経て、そろそろ上巻を読み終えようか、というところまで来た。

 

ぼくは、特別頭がいいわけではない。カントを読んでいるくらいでイキれるとも全然思っていない。

けれど、「わかりづらい」と格闘して考える力を磨いていく努力は、続けていこうと思う。