中二病が治らない

そんな私の戯言です

突き刺すことば

ブログを再開させた当初、ぼくは「自分が書きたいように書く」と決めた。

marfy610.hatenablog.com

しかし、次第に色気づいてくるのが人間の性なのか、ある記事が他の記事よりちょっと伸びが良かったり、ポジティブな感想をもらったりすると「もっといろんな人に読んでもらいたいな」とか「読んでくれる人に対して価値を提供しないとな」なんて欲が出てくる。こうした欲望を自力でかなえようとすれば自分の実力以上のことをやらなければいけないわけで、これがまた骨の折れる作業だ。そうしてやっとの思いで産み出したものはといえば、結局何が伝えたいのかもよくわからないコンテンツ未満のなにかだ。

自分で書いてみて、面白くないと思う文章には共通点がある。
何というか、当事者意識が文面から感じられないのだ。

どこか他人事のようで、やっつけ仕事の印象を受ける。言葉の一つ一つに対して熱がこめられていないから、なんとも残るものが少ない、つるんとした淡泊な文章になってしまっている。

その原因は、多分に自分の実力不足だろう。
「苦手だから」「これは守備範囲外だから」というもっともらしく理由をこしらえて自分の課題から逃げてしまっていては、その後の成長は望めない。
けれど、個人ブログという場所で自分の言葉を残すのであれば、自分で「面白い」と自信をもって言えずして、どうして他人を楽しませることが出来ようか。

実力の不足は一朝一夕で埋まるものではないだろうが、意識は今この瞬間からでも変えられるはずだ。

そのためには、何か一貫したテーマが要る。

等身大の感覚でもって熱量を注ぐことができ、かつ読み手に訴えうるアイデンティティとも言えるような何かを、改めて考えなければいけない。

その上で、自分の伝えたい言葉を綴っていきたい。

 

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なんてことを考えているときに、水野学さん×山口周さんの『世界観をつくる』という本を読んだ。

世界観をつくる 「感性×知性」の仕事術

世界観をつくる 「感性×知性」の仕事術

 

 内容を簡単にまとめると「単純な便益や規模の経済で勝負できなくなってきた日本企業が再び世界で優位性を発揮するには、企業が提供したい価値としてそれらが持つ物語や未来像を具現化して提示すること、すなわち『世界観を持つこと』が重要だ」というものである。

本書では、世界観をつくるプロセスは大きく2つに分けて考えられている。

  1. その企業が一番価値を訴求したい対象(=コアターゲット)に訴求するように自らの歴史・文化・精神性などを紐解き、「その企業らしさ」や「実現したい未来」を体現するイメージを構想し、体系化する。
  2. 体系化されたイメージ群を、様々な方法で表現・発信・具現化する。
    その際に、文章などの概念化されたイメージだけでなく、デザイン・映像コンテンツ・店舗の内装・制服・スタッフの立ち振る舞いにいたるまで、感性に訴えるような表現を用いることが肝要である。

『世界観をつくる』はビジネスマン向けに書かれた本であり、その究極の目的は「企業の利潤最大化」に集約されてしまうのであるが、ぼくはこうした「世界観を構想し、具現化する」プロセスは個人に置き換えた場合でも重要な役割を果たすと考えている。

それは自己分析とか自分探し、あるいは自己実現といった言葉で軽々しく片づけられてしまうのかもしれない。
しかし、自分を理解し、自分の規範や美意識に従って生きるということはとても困難なことであり、他人が一方的に揶揄していいものではないはずだ。

 

大学で専門に学んでいた内容であり、ぼく自身の人生観を大きく変容させた言葉であることから、「世界観」という言葉には個人的に特別な思い入れがある。
一方で、世界観という言葉はマジックワードだよな、とも思う。
意味が多義的でさまざまな文脈で使えるうえに、その語感に妙な説得力がある。
”設定”も”スタンス”も”生きざま”も”ライフスタイル”も”ブランドイメージ”も全部「世界観」の一言でひっくるめて表現できうる現状に、正直あまりいい心地はしない。

世界観とはもともと哲学用語であり、「ある人にとって、世界はどのように存在しているのか」という認識の諸体系のことを指す。
われわれはいびつな球状の惑星の乾いた地面の上に暮らし、空=大気圏の外側には茫漠な空間が広がっている、というふうに世界を認識している。
しかし、これは現代の科学文明に生きるわれわれが「世界はこういうものだ」と認識しているに過ぎない。事実、ヨーロッパでは15世紀まで天動説が絶対だと信じられていたし、古代バビロニアでは世界はドーム状の大地で、その天井を太陽や月が通過すると考えられていた。
ある人の世界に関する認識が定まることで、「私はこの世界でどう生きていくのか」とか「人々はこの世界でどのような役割を果たすべきなのか」という問いに対する答えが導き出され、その人の人生観・道徳観が決まっていく。そしてそれは、そのまま個人の行動基準・判断基準を規定する。
つまるところ、個人の世界観を明らかにすることは、「その人がどのように生きるか」という問いに答えることと直結する。

 

冒頭の問いに戻ると、「何をテーマにして文章を書けばいいのか」という問いに答えるためには「そもそも何のために文章を書くのか」というところへさかのぼって考えなければいけない。
より正確に言えば、ぼく自身の世界観を明らかにして「書く」という行為と結び付けることが必要だ。

ぼくはなぜ文章を書くようになり、なぜ人様にそれを晒すことにしたのだろう?

 

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ぼくは物心ついたころから、他の誰かに対して自分の感情や意思をストレートに表現することに苦手意識があった。

それを初めて自覚したのは、小学校低学年の頃だった。
同じクラスの子と放課後に自分と外で遊ぶように強く迫られ、ぼくは嫌々ながら了承した。本当は家で一人でゲームをして遊びたかったのに、強く言い返されたり逆ギレされるのではないかと恐れて、何も言えなかった。

それは生来の臆病な気質に由来するのかもしれない。外でみんなと遊ぶより内で一人遊びをする方が好きだったし、誰かとしゃべって盛り上がるより一人で空想や妄想に浸ることに楽しさを見出す子供だったからなのかもしれない。

当初は単に自分が気弱なだけで、年を経るうちに良くなっていくだろうと思った。
けれど、小学校を卒業して中学、高校と進学しても、相変わらず自分の感情や意思を打ち明けることへの苦手意識はなくならなかった。むしろ、この傾向はより強くなった。
好きなアーティストのことをクラスメイトから聞かれるのがとても恥ずかしかった。
「クラスの女子の中でだれが良い?」なんて他愛もない問いに答えるのが本気で嫌だった。
自分の本心をいったん打ち明ければ、自分自身を何らかの立場へと与させなければいけない。それはある人間関係の中に自分自身を組み込むことであり、必然的に敵と味方を生み出すことになる。
誰も敵に回したくなかった。だからできるだけ自分の立ち位置をあいまいにして、中立・無関心を装って立ち振る舞っていた。

それはある種の処世術だったのだろう。中立は敵を生み出さない。けれど同時によき味方や理解者がその人に現れることもあり得ない。
自分の本心を隠そうとすれば、やがて人間関係をシャットアウトすることにつながる。
孤独は社会性を失わせ、認識をゆがめ、視野を一方的に狭めさせる。

それに気づいた時はもう手遅れだった。

社会性・関係構築力という点において、既に自分と同年代の他の人たちとの間に決定的な差が生じていることに気づいた。
誰かとつながろうと思っても、どのように接して関係を構築していけばいいのか分からない。結果、さらに孤独を強めていくこととなる。
「あんたに言ったところで分からねぇだろ」と、一層自分の本心を閉ざすようになる。

一人でいることが増えた。必然的に自問自答する頻度が増え、自らの脳内でアイデアや思い付きを醸成させていく時間が増えた。
そしてある時にこう思う。

 

自分と同じ考えを持っている人が、どこかにいるんじゃないのだろうか。

そうであるならば伝えたい。「俺はここにいるぞ!」と。

 

人に本心を打ち明けることを避けてきた自分が、世界とつながるための手段。
それが、ぼくにとって「書くこと」だった。

 

次に浮かぶ問いは「誰に伝えるか」だった。これはすぐに答えが出てきた。

過去の自分。狭い価値観の中に囚われ、人とのかかわりを避けて、未来への可能性を自ら閉ざしてしまっている人。
ぼくはそういう人に、いつかの自分が欲しかった言葉をかけてやりたい。

孤独は心を閉ざさせる。すると社会性は損なわれ、認知のゆがみと視野狭窄はさらに加速する。それらはさらに孤独を加速させ、結果その人はより一層心を閉ざすことになる。
孤独→内省化→社会性の喪失→認知のゆがみ・視野狭窄→孤独、という負のスパイラルが生じてしまう。

そのスパイラルを止め、逆方向へと巻きなおすための最初の一歩。
それは「自分を理解してくれる人」の存在だとぼくは思う。
自分の本心を聞いて肯定してくれる人が誰か一人でもいれば、それはその人にとってとても大きな救いになる。

だからこそ、ぼくは過去の自分と同じような人に突き刺さるような言葉を綴りたい。
小瓶に詰めた手紙を、どこかの誰かが拾い上げてくれることを信じて、大海へと放り投げるように。
そして、自分の文章を読んだどこかの誰かに何かが深く突き刺さったのならば、ぼくにとってそれに勝る”やりがい”は他にない。

それは巡り巡って、自分自身を救うことにつながるのだろう。結局のところ、ぼくもまた理解者が欲しいだけなのだから。