中二病が治らない

そんな私の戯言です

結局は自分のため

ある程度まとまった文章を書くときに「過去の自分」を仮想読者として設定することが多い。
昔悩んだこととか苦しかったことを思い出して、今同じような悩みや苦しみを抱えている人に少しでも参考にしてもらえたらいいな、という思いでテーマを決める。

このコンセプトを思いついたときには、我ながら利他的な考え方ができるようになったなぁと成長を実感したのだが、今になって考えるとこれは相当に個人的な動機によるものなんじゃないかな、なんて気がしてきた。

 

ぼくは16歳から22歳くらいにかけて「自分のことなんて、どうせ誰にも分かってもらえない」と、ずいぶん悲観的な考えを持っていた。どうしてこんなに苦しいのか自分でもはっきりわからないのに、自分が抱えている思いを真に共感してくれる人なんているわけがないと決めつけていた。誰かと一緒にいても、一人ぼっちのように思えた。

けれど、今思えば実際そんなことはなく、自分が抱えている悩みなんてけっこう普遍的なものだった。「誰も分かってもらえない」っていうのも、自分をさらけ出すのが怖くて何重にも仮面をかぶっていたからで、話してみれば共感してくれる人は案外たくさんいた。

多分、「誰にもわかってもらえない」という悲観的な諦めは「自分のことを理解してほしい」という欲求の裏返しだったんだと思う。そしてこの「理解してほしい」という気持ちが、意外なほど今の考えや行動の源泉につながっていることに気づいた。

ぼくは「世の中の相互不理解をなくす」ことが人生のテーマなんだという、漠然とした確信をもっている。
あらゆる争いは相互の不理解から生じる。どうして人と人はわかりあえないのか、それでも異質な他者を理解する方法はないのか、人生をかけて探求していきたいという思いが日に日に強くなってきている。
思い起こせばこの考えは、過去に自分が「他人から理解されていない」と強く思ったことがきっかけだったのかもしれない。

「過去の自分と同じような悩みを抱えている人の助けになりたい」と思って文章を書くのも、巡り巡って過去の自分が負った傷を癒そうとしているからなのだろう。
かつて叶えられなかった欲求を満たすために、今の自分を誰かに理解してもらうためのことばを綴っているのだ。

 

もしかしたら、世の中にたくさんいる利他的だと言われる人たちもまた、誰かを幸せにすることで自分自身も満たそうとしているだけなんじゃないか。そういう意味では完全に利他的な人なんていなくて、誰もかれも動機を突き詰めれば自分のために行動を起こしているんだろうな。相利共生、Win-Winってやつか。

そう考えると、気持ちが楽になる。
ヘンに人の顔色をうかがうんじゃなくて、好きなようにやってやろう。その結果誰かを幸せにすることができたなら、何も問題ないじゃないか。