中二病が治らない

そんな私の戯言です

大人になってる?

平日は仕事が終わってから、ラジオの野球中継を聞きながら過ごすというのが日課になっている。
概してプロ野球ファンという人種は贔屓球団の試合結果で機嫌の良し悪しが分かりやすく変化する。それはぼくとて例外ではなく、イヤフォンから流れてくる音声に一喜一憂しては、贔屓が得点したりピンチを切り抜けたりすると誰もいないのにガッツポーズを決める。反対に失点したりチャンスを無駄にすると、口汚い罵声を虚空へと浴びせかける。そうして勝手に堪忍袋の緒を切っては、半ばやけになってラジオアプリの音源をシャットアウトする。

しばらくたって、少し前までの自分の振る舞いを客観的に振り返ると、子どもの時にイメージしていた「典型的なオッサン」像に、自分自身が近づいていることに気づく。

仕事から帰るなりテレビの前に陣取って、シャツ1枚でビールをあおりながらテレビの選手にブツクサ言っている姿。
「日本の中年男性の姿」を想像したときに、まっさきに浮かぶであろう光景。
子どものころは、その姿が自分自身と重なるなんて到底想像できなかった。
けれども今は、評論家気取りで好き勝手言葉を吐いているであろうオッサンの姿が、自分の将来像としてはっきり意識できる。

けれど、それは嘆かわしいことなのだろうか?
実際のところ、いうほど悪くないんじゃないかって、ぼくは近頃思うのだ。

 

「典型的な日本のオッサン」像を作り上げてきた人々もまた、若かりし頃はそうなるとは予想してなかったのではないか。
年月を重ね、人生の階段を上り、いくつもの経験と挫折そしてつかの間の幸福を通り過ぎ、気が付けば自然にそうなっていたのだろう。

「大人になる」って言葉は誰もが口にしているけれど、実際のところ「大人になった」と自覚できた人はそう多くないはずだ。
その瞬間は、ある日突然逆上がりができるようなものよりかは、気が付いたら前よりも遠くまで走れるようになった感覚に似ているのだろう。
日々の暮らしの中で、気づかないうちに変わっていく。

人はみな、永遠の若さを望む。けれどもそれは敵わない。

それならば、老いた己の姿を肯定できるように、今から準備をしておこうか。

 

そんなことを考える4月の夜。
気づけばアラサーはすぐそこまで迫ってきている。