高校野球の見方が変わった
すでに開会して数日が経っているが、今回の春のセンバツ高校野球大会を初めて観戦した。
3試合ともとてもいい試合だった。
今大会屈指の好投手・市立和歌山の小園くんの(本調子ではなかったらしいが)圧巻のピッチング、その彼を最後まで追い詰めた名将・鍛冶舎監督率いる岐阜商業打線。
3戦目の上田西vs広島新庄なんかは、もう大会屈指の好勝負なんじゃないかってくらい、両者一歩も譲らぬ試合展開だった。登板した両チーム3人の投手がいずれも良かったし、なにしろ12イニングで両チームエラー0ってのがすごすぎる。
勝敗が決した時なんかは、思わず涙がこぼれてきた。
と、ここまで書いてきて、ぼくはあることに気づいた。
高校野球を観る自分の視点が、明らかに以前と変わっているのである。
なんというか、お涙頂戴系の実録ドキュメンタリーを観ているときのような、感動コンテンツとして高校野球を消費している自分がいることに気づいた。
ぼく自身も高校まで野球をやってきたから、春夏の甲子園大会はコンテンツとしてずっと触れてきた。
実際にプレーヤーだったころには、テレビに映る選手の動きを自身やチームの模範としたり、あるいは「昨日のどこどこのあのピッチャーヤバかったよなぁ!?」なんて、部活の仲間内での共通の話題としたりしていた。
プロ野球ファンとして高校野球をみる時には、どの選手がその年のドラフトで指名されそうかだとか、贔屓のチームに誰が入ってきて欲しいかとかに注目する。あるいは、そこで注目した選手が数年後プロで活躍して「俺高校の頃からあいつに目つけてたんだぜ〜!先見の明あるだろ〜」なんて優越感に浸るために、将来の有望株をチェックしたりもする。
けれど、この度芽生えた視点は、上二つとは根本的に異なるものだった。
昨年から続くコロナウイルスの流行によって、高校の部活動もその活動に大きな制限がかかった。
昨年度の春の選抜高校野球は中止となり、夏の大会は形式を変え、各校一戦限りという大きな制限下での開催となった。今も部活動を行う生徒たちにとって、万全の状態とは程遠いといえる。
そういう状況で、テレビに映る球児たちが懸命にプレーする姿を目にする。
すると「本当によかったねぇ〜〜〜!野球ができてねぇ〜〜〜!!」なんて、まるで保護者目線の感情が湧き上がってくるのだ。
もしくは、高い完成度のチームプレーを見て「このプレーを実現するまでに、一体どれくらいの努力を必要としたのだろう!?」とか「ここまで来るには悔しくて眠れない夜もあっただろう!?」とか、まるでボディビル大会の掛け声みたいな感想が飛び出してくる。
こんなことは、今までにはなかった。
少なくとも、他の高校生がする野球の試合で涙するなんて、初めての経験だった。
おそらくだけど、これはぼくが野球というスポーツからだいぶ距離を置くようになったことで、自然発生したものなのだろう。
野球というスポーツをみる時の主観的な視点が薄れて、その分自分に直接関係ないものとしての、客観的、俯瞰的な視点が濃くなった。
そういう状況で、これまでは見過ごしてきた「感動コンテンツとしての高校野球」という一側面が、いっそうの存在感を持ってぼくのまぶたに焼き付けられた、ということなのだろう。
硬式野球は、それに注目する人々の半数が当事者以外であるという点で、高校スポーツの中でもかなり特異であるといえる。
学生時代に選手やマネージャーを経験しなかった人たちが、毎年多く甲子園球場に訪れていることが何よりの証拠だ。
挙句には「熱闘甲子園」のような、高校生の一夏を全国的な映像コンテンツとして昇華した番組も作られているくらいだ。
こうした傾向はサッカーやバレーボールにもみられるが、その歴史・規模において高校野球に勝るものはない。
(といったら、言い過ぎだろうか?)
それじゃあ、その当事者以外の人が高校野球に何を求めているのかといったら、それは「感動」なんだろうと思う。
打算やずるさを一切感じさせない球児たちのひたむきさ。
果てしない努力と鍛錬の上に花開く一瞬の煌めき。
時にフィクションよりも劇的な、試合の結末。
選手のみならず観客の全員が、勝利に歓喜し敗北に涙する様。
その全てが、一つの試合に詰まっている。
そして、ぼくもまたこうした「感動コンテンツとしての高校野球」を享受するたくさんの人々のひとりとなった、ということなのだろう。
けれども、こんなことを考えるいっぽうで
「いや、選手は自分たちのために精一杯プレーしてるだけなのに、それを外野が『感動をありがとう😭』だなんなてやんややんやヌカして、勝手に感謝してるなんざいったいどういうご身分なんだい!?」
と、ひねくれ者の自分が語りかけているのもまた事実だ。