すぐには形にしない
書くことは、しばしば料理にたとえられる。
どんなものを作りたいか(テーマ・コンセプト)、どんな食材(経験・アイデア・インタビュイー)を使うか、その食材をどう調理(文体・表現方法)するか、調味料(文献・言葉遊び)は何を使うか、盛り付け(媒体・UI/UX)はどうするかetc...
一つの文章を仕上げるだけでも、複数の行程がいる。
そこが面白いところでもあるし、面倒くさいところでもある。
適切な調理方法は扱う食材によって変わる。
港で採れたての新鮮な魚介は、刺身にして食うのが一番だ。
そのままでは食べられない野菜の皮なんかは、煮込んでダシをとればスープに使える。
経験と文体の関係も、多分大体おんなじだ。
ほとんどの人が経験したことのないような稀少な体験はそれ自体で訴求力があるから、可能な限り当時の経験に忠実に書くことが望ましい。
一方で「スーパーに卵を買いに行ったら売り切れていた」とか「ジャムの蓋がなかなか開かなかった」みたいなありふれた経験は、ひと工夫加えて味を足す必要がある。
このルールは、多分他の創作表現でも一緒だ。
歴史的事件を捉えた写真は可能な限り修正を施さず発信されるべきだし、ありふれた景色に芸術性を持たせるなら撮り方や編集方法を工夫することが求められる。
素人だからわからないけど、音楽や絵画も似たような感じだろうか?
◆◆◆
「経験はすぐに言語化すべきか?」という問いを、最近ずっと考えている。
こうして出てきた結論を、今から述べる。
第一に、記録としての言語化はしておくべきだ。
経験は時が経てば記憶が薄れ、その時の感情や思考も風化して思い出せなくなってしまう。
詳細な記録じゃなくてもいいから、当時のイメージを思い出せる程度の覚書はどこかに残しておく必要がある。
しかし、発信するものとしての言語化は、必ずしもすぐなされなければいけない、とは限らない。
出来事の意味は、月日とともに変化する。
まったくの無駄に思えた過去も、ふとしたきっかけで見え方が変わり、自分にとって大きな意味を持つことがある。
ある出来事がきっかけで、それまで理解が出来なかったものが「そうか、あれはこういうことなんだ!」といきなり分かることがある。
経験したことをすぐ発信すればいいとは限らない。
一旦寝かせて、時間を置いて、時には別の何かを加えることで、その味わいは一層深みをもったものになる。
そう考えると思い出す。
わが国には「発酵」という、世界に誇れる伝統的な調理方法があるということに。