中二病が治らない

そんな私の戯言です

何者にもなれなかった君へ

ちょうど就職活動を始めたくらいの頃、授業で講演に来たゼミのOBの先輩から朝井リョウさんの『何者』を薦められた。酒の席でぼくが「いわゆる意識高い系というか、自分を過剰に大きく見せようとする人たちに気持ち悪さを感じるんですよ」と漏らしたあと、その先輩が「どうして気持ち悪さを感じるのか、この本を読めばわかると思うよ」と言って薦めてくださった。

今からだいたい3年ほど前の話だ。

 

そして、ぼくは今、足掛け3年近くかかった就職活動を終えようとしている。

 

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「何者かになりたい」という欲求は、90年代生まれの世代くらいから急にメジャーなものになったように感じる。
その原因は、わが国の経済状況に関係があるとぼくは考えている。
平成の世は「失われた30年」ともいわれ、1991年から2019年までの実質成長率は年平均で0.9%とほとんど横ばいだ。国全体が豊かになっていく過程で「明日はもっと豊かになる」という確信のもと生きていた昭和の人々とは違い、平成生まれの人々は「自分の親よりも金持ちになれる確信がない」なかで生きている。相次ぐリストラやブラック企業に代表される劣悪な労働環境も相まって「社会の歯車として生きていく」ことに疑問符がつきはじめたのも、ちょうどこの世代くらいからではないだろうか。
そこにインターネットやSNSの普及により、個の情報発信の革命がおこった。
誰もが簡単に自分の存在を世間にアピールできるようになったことで、実に様々な分野で「何者かになった人」の存在が目立つようになった。
規模の拡大がほとんど期待できない市場経済を戦場として戦おうと思えば、限られた取り分を数多くの優秀な人材と争わなきゃいけない。
結果、強者総取り、弱肉強食の様相を呈する。

それよりも、新しく生まれてきたバーチャル空間において知名度を獲得したほうが、より簡単に豊かで幸せな人生を送れるのではないか。
そう考えた人が個を突出させ「何者か」になろうとするのは自然な流れではないのだろうか。

この傾向にさらに拍車をかけたのが2010年代くらいから徐々に高まっていった「自分らしさを追求しよう」というトレンドだ。
「好きなことで、生きていく」と銘打ったYoutubeの広告や「ありのままの自分になるの」、少しさかのぼれば「ナンバーワンにならなくてもいい、もともと特別なオンリーワン」と歌ったヒットソングなど、均一化された中での競争を否定し、おのおのの個性を出すことを奨励する風潮が主流になった。
かくして伝統的な価値観を否定し、自分らしい生き方と世間での名声をともに獲得しようとする「何者信仰」が確立された。

 

ぼくの就職活動を総括すると、「何者かになりたい」という欲求を消化しきれずに時間を長くかけすぎてしまった、ということにつきる。

時間に応じて「軸」といわれるものがコロコロと変わり、それに応じて志望する業界もめまぐるしく変わっていった。
(街づくりに関わりたいからデベロッパー→人の可能性に関わりたいから人材業界→なんか得意そうだからIT→本好きだから出版etc...)
抽象的なレベルでは一貫したものがあったのかもしれないが、それを具体的な手段まで落とし込めることをずっと怠っていた。
何かをすることで世の中に貢献するのが目的ではなくて、普通の人ではない特別な存在となって皆からの注目を集めたかっただけだったのだから。


もっといえば、自分が特別な存在なのだと、信じていたかったのだ。
ずっと馬鹿にされて生きていたと思い込んでいた。自分は過小評価されていると思っていた。
いつか誰かが、自分の価値を認めてくれるはずだと信じていた。
自分で何かしらの目標に向かって努力することをしなかったくせに、ある日突然世の中が自分の才能に気づいて「何者か」になれると夢見ていた。

 

何者かになりたいと願いながらも、結局何者にもなれないような人は、ある決定的な自己矛盾に気づいていない。
自分の価値を広く世の中に認めさせたいと思う一方で、彼ら自身が自分の価値判断の基準を外的なものに置いている、ということだ。
「何者かになりたい」という欲求は、つまるところ承認欲求だ。人から認められたいと思ったら、どうすれば注目を浴びるのか、他人の関心の琴線に触れることができるのかを第一に考えるだろう。
けれど、実際に何かを成し遂げて知名度を獲得した人は、承認欲求だけを原動力にしてきたわけではない。自分自身の経験や嗜好からおのおの確固たる個性を見出し、それらを発信し、継続し続けたからこそ何者になりえたのである。
実際、SNS知名度と発信力を有する人のほとんどは、それがなくても自分の食い扶持を確保していける人だ。
自分の中身がスッカスカなのに承認欲求だけで突っ走れば、不特定な他者の承認という形のない不安定なものを道しるべにしていくしかないので、自分の軸なんてものはなくフラフラと迷走するしかない。よくてネットのおもちゃになるのがオチだ。

それに、仮に知名度と承認を手にしたとしても、その価値はとてつもなく速いスパンで変動する。たった一度の不祥事や炎上で、それまで積み上げてきた承認が一瞬で嫌悪や嘲笑に転化する世界だ。
事務所に所属しマスメディアに出演する有名人だって、一度悪評が巷間に知れ渡ればたちまち悪者、奸賊扱いされる。
仮に「何者か」になれたとしても、彼らの存在価値は他者の評価というあいまいなものに依存せざるを得ない。

SNSのフォロワー数の増減に一喜一憂すれば、一部の人は皆の耳目を集めるために「炎上」覚悟の挑発的な発信を行う。
結局のところ「何者かになりたい、なろう」とのたまう人のほとんどは、口では自分らしさを追求しながらも、不特定の他者に強く依存しなければいけない存在なのだ。

 

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いささか言い方が悪かったかな。

けれど、こうでもしないと君は聞く耳を持たないだろ?なぁ?

 

皇居のベンチでうずくまり、理想と現実のギャップに打ちひしがれているいつかの俺よ。
君は口では否定しているが、結局は承認と羨望が欲しいのだろう?
SNSで承認を得ようとする人を気持ち悪いと言いながらも、結局は自分がそれをする勇気がないだけで、目立っている奴に嫉妬しているだけなんだろ?
お前が望んでいる世界は耳障りがいいように聞こえるけど、結局は他人の評価にびくびくしながらやっていくしかないんだぜ。

 

それでも、お前は「何者か」になりたいか?

 

俺は何も「自分の個性を殺せ」なんて言っているわけじゃないんだ。
その代わりに一つ提案をしたい。

他者の評価という不確かなものに自分の価値をおくより、自分自身が価値を感じられる「確かなもの」を追求してみないか。
承認ではなく、充実感、生きている実感を追い求めてみないか。
そっちのほうが、きっと面白いと思うぜ。

 

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ぼくが就職浪人を決意した後、最初に読んだ本が『何者』だった。

その時、この本はまるで自分のことを書いているように感じられた。

そして今、再度読み返してみると、綴られたことばのひとつひとつがより深く、より現実感をもって自分の心に突き刺さっているのを実感した。

結局、自分は何者でもなく、何者にもなれやしないのだ。
そして、その事実に気づいた瞬間から、真の意味での「自分らしさ」の探求が可能になるのだと思う。