中二病が治らない

そんな私の戯言です

変化をとらえる

正月や葬式の時だけ会うような親戚から「見ないうちに大きくなったなぁ~」と言われたことは、皆様も一度はおありだろう。

誰かと会うとき、人は最後に会った時の姿をずっと記憶し続ける。一方で人は日々変化し続けているわけだから、ある人の誰かが記憶している姿と、その人の実際の姿とはだんだんとズレてくる。当然、そのズレは次に会うまでの間隔が長いほど大きくなる。
まして数年に一回くらいしか会わないようなら、それこそ別人と言っていいくらいに大きな認識のズレが生じてくるはずだ。

 

逆に言えば、日々絶えず目にしている自分自身の変化は自覚しづらい。
それこそ、何年もずうっと変化していないんじゃないかと思えるくらいに。
だからこそ、人はTOEICの点数とか、体重計に表示される数値とか、あるいはブログのPV数とか、目に見えて客観的な変化を望むのだろうか。

 

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ぼくは自分自身を顧みて「成長してないなぁ」と実感することが多かった。
他人と比較して劣等感を感じやすいタチだからなのか、FacebookInstagramでは友人知人の華やかな一面だけがクローズアップされるからなのか、周りの活躍を目にしては「あいつはすげえなあ、それに比べて俺は…」と落ち込むことがしょっちゅうあった。

一緒に暮らしでもしない限り、他者の変化は非連続点で見るしかない。
このところは親しい友人であっても会うのは四半期に1回くらいだから、会わない間のお互いの変化を一気に濃縮して共有することになる。この間に恋人ができてそして別れただとか、難しい資格を取っただとか、数か月の積み重ねを数時間のうちに語るわけだ。
その間に経験したであろう様々な思いや葛藤をすっ飛ばして結果だけ聞けば、まあ「あいつ、すっげえ変わったな」とも思うだろう。

 

そしてこの時間間隔は、相手が自分を見る際にも同様に作用する。
会わなかった期間の経験を話した際の反応で、自分が最後にその人に会った時からどのくらい変化したのかが推し測れる。それと同時に、相手との対話を通じて自分自身への新たな気づきも得られる。

 

人と話してみると、変わってないようで自分も案外変化してるもんだな、と思える。

一昨年に20卒の就職活動から(一時的に)解放された後にあった人からは「顔色が明るくなった」「前より元気そうで安心した」と口々に言われた。

数年前には「友達なんかいらない」「独りででも生きてやるんだ」なんて強がっていたのが、つい最近友人に「新たに友達が欲しい」「喜びや感動を誰かと共有したい」なんてこぼしていた。自分でもびっくりした。

 

自分の変化は目に見えにくい。
変わっていないように見えても、努力を続けていればちょっとずつ上昇しているものである。
反対に、怠惰でい続けていたらちょっとずつ堕落している。恐ろしいことに、自分ではその堕落に気づけない。

自分の現在地を正確に捉えるために、定期的に信頼できる誰かと話をした方がいい。
それはちょうど、毎日風呂に入る前に体重計に乗るようなものだ。メンテナンスは欠かさずやっていこう。