中二病が治らない

そんな私の戯言です

この胸の喜びを、どんな言葉で伝えればいいだろう

考え事をするとき、ぼくはよく歩き回る。

あちこちを逍遥しながら自分の脳内と会話しているうちに、現実の出来事や世の中の仕組み、あるいは哲学的・観念的なテーマについて(あくまで自分にとって)魅力的なアイデアがしばしば浮かんでくる。そこからさらに連想を広げていって、頭の中で自分なりの思考の体系ができた日には、嬉しさから自然と笑みが溢れてきて、無意識にスキップなんかしてしまうくらい心が弾む。

「今考えてることを文章にできたらバズっちゃう!言論界に見つかっちゃううう!!!」

なんて妄想を暴走させながら机に向かい、鼻息を荒げつつノートを開いて
ペンを持つ。

すると、どうしたことか。

ペンを持つ手が、うんともすんとも動かない。
ついさっきまで自分の頭の中で生き生きと躍動していたアイデアたちが、途端に大人しくなってしまう。
それでもなんとか言葉を捻り出してみるが、ノートに書かれたものは頭の中にあったイメージと大きくかけ離れている。

こうした事態は一度や二度ではない。

 

頭の中にあるイメージと、現実にあらわした言葉とのズレをしばしば感じる。
そしてそれはぼくを悩ませる。

 

誰かに向けて語ったことが、自分の言葉じゃないように感じられることがある。
思いをつづった言葉が、自分が本当に伝えたかったことを表現しきれていないような気がして、もどかしさを感じる。

「俺が言いたいのはそういうことじゃない!
けれど、正確に表現するにはどうしたらいいのか、自分にはわからない」

自分の思考や感情に形を与えることができない、それがたまらなく苦しい。

こうした言葉〈表現〉とイメージ〈形象〉のズレは、自分の発した言葉が自分の意図とは違う形で相手に受け取られる場合とは根本的に異なる。
前者は個人的で内面的な問題だが、後者は他者との関係性にまつわる問題だ。

「自分では〇〇を伝えたかったけれど、相手には××と受け取られてしまった」
という時、その食い違いは言葉をめぐる自分と相手の解釈のズレに起因する。
この齟齬を解決するには、追加でいくつか会話をすればいい話だ。
「本当は〇〇を伝えたかったんだけど、うまく伝わってなかったよね」なんてやりとりを何度か行うことで、双方の認識のずれを是正していくことができる。

けれど、形象と表現のずれは個人単体で完結する問題であり、内的であるがゆえに悩みを他者と共有ができない。
自分の思考・感情を正確に描写できないもどかしさは、自分一人で抱えていくしかない。

”もっと、自分のアイデアや感情を頭の中のイメージそのままに伝えられたら”

そんな内なる叫びを、誰にも打ち明けられないままに抱えていたのだが、
ある時ふと、こんな疑問が浮かんだ。

 

そもそも、言葉でイメージを完璧に表現することなんて、本当にできるのだろうか?

 

言葉には、それ自体が内包する意味の領域がある。

たとえば、「思考」という言葉を辞書で引くと、

 名  スル

考えること。また、その考え。 誤った- 余は-す、故に余は存在す/吾輩は猫である 漱石
  thinking 意志・感覚・感情・直観などと区別される人間の知的作用の総称。物事の表象を分析して整理し、あるいはこれを結合して新たな表象を得ること。狭義には概念・判断・推理の作用による合理的・抽象的な形式の把握をさす。思惟。 明治期につくられた語

 引用:三省堂 大辞林 第三版

と表現できる。

 「思考」という言葉を用いる時、普段使いではアタマを使って考えたり、考えた結果生まれたモノを表し、それ以外の意味は(基本)含まない。
哲学の用語として用いる場合はもっと厳密だ。

このように、言葉によってそれが意味する領域というか、守備範囲みたいなものが決まっている。
頭の中のイメージを言語化するとき、それぞれ領域の異なる複数の言葉を組み合わせて、レゴブロックのように一つの完成物を作っていくというのが、言語化という作業の自分なりの解釈だ。

ここでポイントなのは、言語がかたどる対象である思考の形はあいまいで、はっきりした形を持たないということだ。
レゴブロックでどれだけ精密に犬の模型を作っても現実の犬とは姿かたちが完全に一致しないように、言葉だけで頭のイメージを完璧に描写することは不可能だ。
できるのは、可能な限りズレを少なくすることだけだ。

 

では、どのようにしてズレを小さくするか。

その答えは、語彙を増やすことだ。

語彙を豊富にすることで複数の言葉の間にある微妙な「ズレ」を認識でき、よりきめ細かく形象を描写できる。

日本語には、雨を表すことばだけで400語以上の単語が存在するらしい。
それらの単語はそれぞれ「雨」という単一の事象を表すことから一定の共通領域をもつはずだが、別の単語として区別していることからそれぞれに微妙な領域の違いがある。「時雨」と「春時雨」は、雨の降り方という点では同じだが、降る季節が違うために別の言葉としてすみ分けられている。

”きく”という動詞も、使われる漢字が違えば意味が変わってくる。
「聞く」「聴く」「訊く」では、同じ耳を使ってなされる行為でもそのニュアンスが大分変わる。

 

外国語を覚えることも有効な手段の一つだろう。

ぼくは高校時代、英文和訳問題の直訳めいた解答が気に入らなかった。
直訳での回答を求めるのは、答案者の語彙力と構文把握能力、コンテクストを読み取る能力を測る目的があるということは、今でこそ理解できる。
それでも、意味が対応する英語と日本語の間に存在する微妙なニュアンスの違いを無視して、単純な1対1の意味対応に落とし込める、その無神経な大雑把さが癇に障った。

言語が違えば、それを使う民族もその成立背景もかわってくるのだから、一見意味が対応するように見える言葉同士でも、意味のズレは必ず現れてくるはずだ。
映画の吹き替えなんかはだいたい意訳だ。元の言語で伝えたかったイメージを正確に感じ取り、それを別の言葉で置き換える作業は、まさに翻訳家の腕の見せ所だろう。

 

語彙を増やすことは、手持ちのブロックを増やすことだ。
使えるレゴブロックが増えれば、その分だけ造形の自由度が増す。
すると、あいまいな形のイメージをより精密に、具体的な形を与えられるのではないか。

その上で、ぼくは言葉とイメージの関係において危惧していることがある。

言葉は便利だ。具体的に領域が決まっているから、自分のものでなくても形がわかりやすい。
それゆえに、自分の考えていること・感じているものの形状を正確に把握しようとせずに、それらを既にある言葉にはめ込んでしまう場合がしばしばある。

言葉をものさしとして使うのではなく、鋳型として使ってしまうのだ。

自分の頭の中のイメージをつかもうとせずに、出来合いのフォーマットに当てはめてしまう。

自分の意見を話す時に、いつも何かの本や有名人の言葉を借りている人がちょくちょくいる。「ああ、またこのパターンか」とがっかりするし、正直面白くない。
「俺はどっかの誰かのご高説じゃなくて、アンタ自身の意見が聞きたいんだ!」と言ってやりたい。
自分の思考や感情を型に当てはめていると、いつのまにか自分の本音が分からなくなる。

ぼくも気をつけなければ。

 

ぼくは大学に入ってから本をよく読むようになったのだが、その理由の一つに「思考のブロック/ものさし」をたくさんインストールしたい、というものがある。
(一番の理由は「頭いいと思われたいから」です。ごめんなさい)
いろんな言葉や考え方を知れば、それだけ自分の頭の中を正確に表現できる。

けれど、もしかしたら言葉では表しきれない感情やイメージがあるのかもしれない。
というか、きっとあるのだろう。
レゴブロックはすがた形を再現することはできるが、実物のにおいや質感までは再現できない。
歌やダンス、絵画などの表現は、そのために存在するのだろう。

 

ぼくは就活とコロナ禍がひと段落したら、新しく楽器を始めようと思っている。

 

 

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