書けなくてしんどい時期に考えたこと
これは、壁なのだろうか。
あるいは、壁と言うにはあまりにも低い、ただの段差でしかないのか。
ここしばらく、満足のいくものが書けていない。
自分の書いたものが、クソつまらなく感じる。
魅力的に思えたアイデアは書き上げるうちに陳腐なものへと成り下がり、興味のあるものごとを調べてまとめてみても、退屈な情報の羅列にしかならない。
これまでは、書けば書くほど成長が実感できていた。一本の記事を書き上げる度により多くの文字を書けるようになり、文章構成はより明瞭になっていった。
やる気がなくなったわけではない。テーマだって見つけ出せる。けれど、手応えがつかめない。自分が納得のいくものが書けない。
こんなことは今までになかった。
これがスランプ、あるいはプラトーってやつか。
自分にとって面白いものが、他の人にとっても面白いわけではない。
でも、少なくとも自分が面白いと思えない文章なら、そんなものは最初から書かないほうがマシだ。
人の真価は、ものごとが上手くいかなくなった時に試されるという。
そんな話を、以前聞いたことがある。
壁にぶつかった時、あきらめるか、ぶつかっていくか。
妥協して楽な道を進むか、困難な道だとわかっていてもよじのぼっていくか。
苦境への対応の仕方で、その人の真価が見えてくるという。
俺は、努力をしたことがない。
ここでいう努力ってのは、「部活で全国を目指す」とか「資格を取るために勉強する」みたいな、就職面接で話すような形式的なやつじゃない。
たとえば、志望校に合格するために机から片時も離れずに勉強し続けて、1日のノルマが終わったらそのままぶっ倒れるように眠り、起きてまた勉強という日々を繰り返すこと。
あるいは、創業したての会社をなんとか存続させようと昼も夜もなく働きつづけ、何か月もオフィスで寝泊まりしながら死に物狂いで成果を挙げること。
何かを本気で手に入れたいと思って、それ以外の全てを犠牲にして、血反吐吐きながら一心不乱にやるべきことをやる。
そういう「血の滲むような努力」をした経験が、これまでの人生で一度もない。
「いや、そこまでやらなくていいじゃん」
脳裏から囁く声が聞こえる。実際、その囁きは真実だ。
努力出来ないのは、単純に”する必要がない”からだ。
事実、世の中の大多数の人はたいして努力してないし、そんなことしなくても楽しく日々を過ごしている。
逆に、努力なんてしたくないしする意味も感じてない人に向かって「怠けてるだけでしょ」と言うのは余計な不幸を生むだけだし、なにより全くのピント外れだ。
努力とは、徹頭徹尾自分のためにやるもの。
欲しいもの、叶えたい理想があるからこそ、心血を注ぐもの。
本来はそういうエゴイスティックなもののはずだ。
「努力したことがない」というのは、つまりは「どんな犠牲を払ってでも、何かを本気で手に入れたい」と思った経験がない、ということだ。
それが俺のコンプレックス。
無欲ではなく、欲が弱いのだ。
ハングリーさ、あるいは男性性の欠如ともいえる。
何かを手に入れたいと思って努力してみても、ちょっと壁にぶつかると弱気になって言い訳して我慢して「実はそこまで欲しいものじゃなかった」って自分にウソをつく。
そういう自分が嫌いだ。
金も女も夢も、自分の望みが何一つ叶わなかったとしても、高潔に生きられればそれで満足?
なんて欺瞞だ。
もっと欲張りに、わがままになれ。
まだやれることがあるのに辞めるのは、絶対に間違ってる。
「書くこと」を本気でやってみたいと思った。
誰のためでもない。俺自身のエゴからくる動機。
壁にぶつかって辞めるのも、続けるのも自分次第。
ただ、ここで諦めたり妥協すれば、また同じことの繰り返しになる。
だから、今現在抱えているモヤモヤとかを、無理やりにでも形にした。
書き留める必要があった。そうしなきゃ前に進めない。
そして、ついに書き留めた。
あとは、あがいてみるだけやってみればいい。
エンドロール
仕事をし始めると、建前が大事になってくるみたいだ。
腹の底で思っていることと別のこと、時には真逆のことを、表に出す必要がある。
そういうことを繰り返していくと、次第に腹の底に沈殿した感情に目を向けることがなくなってきて、自分の本心が分からなくなってくる。
だから一般に共感されにくいようなことでも、いや共感されにくそうなことこそ、言葉にして遺しておくことが大事なんじゃないか、って思うこの頃である。
さて、真面目な話はこのくらいにして。
先日、Netflixで映画を観た。
もともと動画サイトではあまり映画を観ない。注意力散漫な人間なので、すぐ他のことが気になって携帯をいじったり、ベッドで横になってうとうとしてしまう。同様の理由で、レンタルビデオ店で借りることもあまり多くない。だから映画を観る時はだいたい現場(映画館)に行く。
けれど、昨今の情勢的に現場にはちょっと行きづらいし、そもそも金欠で経済的余裕がない。
そういうわけで、普段あまりやらないお家シアターをやったわけなのです。
部屋の明かりを消して、ノートパソコンの画面いっぱいに映像を映す。
アウトドア用の椅子に腰かければ、ちょっとしたシアター気分だ。
本編が終わり、スタッフロールに入る。その時にちょっと気になることが。
Netflixでは動画が終わると、自動的に次の作品(話数連続ものの場合は次の話)に移動する仕組みになっている。
そのタイミングが、大体スタッフロールやエンディングに入るタイミングなのだ。
いや。
一つ言いたい。
クレジットを飛ばすんじゃねえよ!
ピクサーがクレジットで小枠アニメを挿入している意図を汲み取れ!
俺が心の底から軽蔑している行為を、俺にさせようとするな!
ぼくは映画館でスタッフロール中に席を立つ人が本当に許せないのだ。
意中の女性がこういうことをしたら、百年の恋も冷めると思う。
いやホントに。
ぼくはインターフェースに抗い、クレジットを最後まで流すよう操作を施した。
その映画に携わった人々の名前が流れる場面を眺め、あることに気づく。
あれ、俺そんな真剣に見てねえじゃん。
クレジットを観せようとしないUI設計に腹は立てど、肝心のクレジットの中身にはあまり注目していないのである。
作品を作り上げた方々に敬意を表するわけでなく、作品が出来上がるまでの労力に思いを馳せるでもない。ただただ、画面をぼうっと眺めているだけ。
そこでもう一つの疑問が浮かぶ。
なぜ俺は、クレジットの途中で席を立つ人間が許せないのだろう。
「クレジットを最後まで観ない」という理由で糾弾しているのなら、俺にその資格はない。
Netflixでアニメやドラマを見る時に、エンディングクレジットを飛ばすことがしばしばあるからだ。
あるいは「公共の空間で自分勝手な行動をする」ことにキレているのだろうか。
だとしても、自分がそこまで規範的な人間だとは思えない。どちらかというとこの怒りの源泉は、自分の快・不快に基づくものだ。
そうか。
ぼくは映画館でスタッフクレジットを最後まで観ずに離席する人間に怒りを感じるのか。
納得いく結論を導き出すと、ぼくは「戻る」ボタンをクリックした。
自分の感覚や感情は、雑に取り扱うべきではない。
ふと湧き上がってくる喜びや悲しみや怒り、あるいはそれ以下の違和感について安易に結論づけてしまうと、それ以上きめ細かく見ることをやめてしまう。
結果、感性のグラデーションがどんどん単色になっていって、ものごとに触れた時の感動が単調で、つまらないものになっていく。
だから、書き遺す必要がある。
それは自分の感性を守るために、必要な手続きなのだ。
クレジットも、もうちょっとちゃんと観ないとな。
口実としての教養
いつごろからか「教養」という語をタイトルに含む本が増えた。
「教養としての〇〇」に当てはめられる単語は、ほんとうに多岐にわたる。
世界史、物理学、経済学、憲法、アート、プログラミング、落語、ワイン、ラップなんてものもある。
この手の本は買うことはおろか立ち読みすることもほとんどないのだが、(おそらく)ブームの火付け役だと思われる『1日1ページ、読むだけで身に付く世界の教養365』は一度手に取ったことがある。ページをパラパラとめくり10分ほど眺めたあと「これ、高校の教科書で十分じゃん!」と思って、それ以降この手の本に目を向けるのはパッタリ止めにした。
こうした本の中に、本当にためになる良著がまぎれている可能性は否定しない。
だとしても、「教養としての~」みたいなタイトルを誇らしげに引っ提げている書籍の存在を、ぼくはあまり歓迎していない。
というより、教養を「役に立つもの」としてプラグマティックに手に入れようとするあさましい欲望が、本の形を借りて顕現していることに我慢がいかない。
たかだか数冊の本を読み、断片的な知識や雑学をこしらえたくらいで教養が身に着けられると嘯く厚かましさ、またそうしたものをありがたがる消費者の横着さが目に余る。
「教養」とは、いったい何だろうか。
「あの人には教養がある」と言うとき、その人物が有している資質とは何なのか。
ぼく個人の考えを言えば、教養とは「知の履歴書」のようなものだ。
何を考え、何をどのように学んできたか。
どんなことに興味を持ち、どんな書に触れたか。
何を知りたいと思い、誰に話を聞いたか。あるいは、どこへ足を運んだか。
この世に生まれ落ちてから今日までに積み重ねられたあらゆる知的営為が、樹木の年輪のようにその人自身の見識と風格を形作る。
「いろんな物事をたくさん知っている」ことは、あくまでそうした知的営為の副産物でしかない。本質はもっと別なところにある。
それに、本当に教養を備えた人物は、自分から「教養があるかないか」なんてことは口にしない。
教養は醸し出すものであり、ひけらかすものではないからだ。
待ち時間
ぼくが小学生だったころ、2000年代後半のyoutubeは、今よりずっと遅かった。
PCのスペックやインターネット回線の速度が今と全然違ったせいもあるが、1本の動画を観るまでに、だいたいその動画の再生時間と同じくらいの読み込み時間があった。今じゃ考えられない。
2021年のぼくは、携帯をauのスタンダードプランからpovoに乗り換えて、速度制限時でも1Mbpsのデータ通信が可能になった。にもかかわらず、通信制限で回線が遅いと文句を言っているのだから、ほんの10年前と比べても世界はずいぶん早回しになった。
早回しになったことで、辛抱に耐えられなくなっている。
今やすっかりおなじみになったyoutube広告。広告をスキップするまでの5秒の時間も惜しくてたまらない。
ネットの動画でCMを見るなんて想像すらしていなかった2000年代後半の方が、本編にたどり着くまでずっと時間がかかったのに。
テレビ番組も、見たいものはもっぱら録画して観るのが当たり前になっている。
今はテレビ番組の録画は、大容量のHDDに保存するのが当り前だ。予約も番組表からヒョヒョイ、っとできてしまう。
見たい番組を時間を選ばず見るためにビデオデッキの真っ青な画面をいじったり、VHSを先頭まで巻き戻したりする必要はない。
というか、「巻き戻し」「早送り」がビデオテープの処理方法を指すことばだってことも、今の今まで忘れていた。
世の中が便利になるにつれて、ぼくらはよりせっかちになった。
けれど、それを指して「現代人は堪え性がなくなった」というのも、いささか早計でもある。
昨年末、コロナ禍にもかかわらず宝くじ売り場には長蛇の列ができていた。
ずっと早く移動する手段があるにもかかわらず、青春18きっぷはなくならない。
世の中が便利になって、望まぬ待ち時間はことごとく退けられている。
その一方で、わざわざ待つ手間を自分から買いに行くケースもある。
なんでもかんでも一元的な傾向としてとらえるのは、少し無理がありそうだ。
大人になってる?
平日は仕事が終わってから、ラジオの野球中継を聞きながら過ごすというのが日課になっている。
概してプロ野球ファンという人種は贔屓球団の試合結果で機嫌の良し悪しが分かりやすく変化する。それはぼくとて例外ではなく、イヤフォンから流れてくる音声に一喜一憂しては、贔屓が得点したりピンチを切り抜けたりすると誰もいないのにガッツポーズを決める。反対に失点したりチャンスを無駄にすると、口汚い罵声を虚空へと浴びせかける。そうして勝手に堪忍袋の緒を切っては、半ばやけになってラジオアプリの音源をシャットアウトする。
しばらくたって、少し前までの自分の振る舞いを客観的に振り返ると、子どもの時にイメージしていた「典型的なオッサン」像に、自分自身が近づいていることに気づく。
仕事から帰るなりテレビの前に陣取って、シャツ1枚でビールをあおりながらテレビの選手にブツクサ言っている姿。
「日本の中年男性の姿」を想像したときに、まっさきに浮かぶであろう光景。
子どものころは、その姿が自分自身と重なるなんて到底想像できなかった。
けれども今は、評論家気取りで好き勝手言葉を吐いているであろうオッサンの姿が、自分の将来像としてはっきり意識できる。
けれど、それは嘆かわしいことなのだろうか?
実際のところ、いうほど悪くないんじゃないかって、ぼくは近頃思うのだ。
「典型的な日本のオッサン」像を作り上げてきた人々もまた、若かりし頃はそうなるとは予想してなかったのではないか。
年月を重ね、人生の階段を上り、いくつもの経験と挫折そしてつかの間の幸福を通り過ぎ、気が付けば自然にそうなっていたのだろう。
「大人になる」って言葉は誰もが口にしているけれど、実際のところ「大人になった」と自覚できた人はそう多くないはずだ。
その瞬間は、ある日突然逆上がりができるようなものよりかは、気が付いたら前よりも遠くまで走れるようになった感覚に似ているのだろう。
日々の暮らしの中で、気づかないうちに変わっていく。
人はみな、永遠の若さを望む。けれどもそれは敵わない。
それならば、老いた己の姿を肯定できるように、今から準備をしておこうか。
そんなことを考える4月の夜。
気づけばアラサーはすぐそこまで迫ってきている。
「わかりやすい」の危うさ
文章を書くとき、いちばん大切なこと。
それは豊富な語彙でも豊かな表現力でもなく「わかりやすさ」だ。
簡易平明であること。小学生でも理解できるような内容であること。
わかりやすいことは、何にもまして強力な武器になる。
そこに「すぐ読み切れる」手軽さが加わればなおよしだ。
反対に、どれだけ並外れた知見や見解を文章にしようが、難解さのあまり文意が理解されなければその価値は十分に評価されることはない。
「わかりやすいは正義」と断じても、言い過ぎではないだろう。
今、巷には「手軽でわかりやすく、役に立つ」コンテンツがあふれかえっている。
ビジネス書(個人的にはこれでも十分わかりやすいのだが)のコミカライズに始まり、過去の名作や古典をわかりやすく解説したyoutube動画、ある学問の要点と結論だけを簡単に示したネット記事。
「ネットを見ればわかりやすい情報が無料で簡単に手に入るから、学校に行かなくてもいい」と主張する人も中にはいる始末だ。
これだけ多くの「わかりやすい」が供給されているのは、それだけわれわれ消費者が咀嚼しやすいコンテンツを求めているのだろう。
たしかに、電車の移動時間だけでサクッと消費しきれる情報や、一日動き通しで疲れた頭にもすうっと入ってくる情報がもてはやされるのは、肌感覚としてよくわかる。
実際、ぼくもこの手の解説動画とか解説記事をけっこうな頻度で見たりもする。
しかし、同時に思うのだ。
飲み込みやすい情報に過度に依存するのは、危険なことだ。
気づかないうちに、貧困に陥るおそれがある。
ここでいう貧困は、文化的な意味での貧困をさす。知性の減衰、あるいは想像力の欠如と言い換えてもいい。
わかりやすい情報とは「それを理解するためにかかるコストが少ない情報」である。
反対に、わかりづらい情報はその内容理解に大きなコストを要する。
ここで注意してほしいのが、情報の理解のしやすさは、その情報が持つ有益性には一切の影響力を持たないということだ。
数学の授業を思い出していただきたい。パッと見ただけでは意味がわからない数式や定義が矢継ぎ早にあらわれて、「もう自分には無理だ」と途中で投げ出した方も少なくないのではないだろうか。中には「数学なんて仕事では役に立たないから意味ないだろ!」と恨み節を吐いたりも。
だが、われわれの生活に欠かせない工学やコンピュータ・サイエンスの世界では高等数学の素養が必須である。数学の知識は、直接ではないにしろ大いに役に立っている。
「わかりやすいかどうか」と「役に立つかどうか」は、全く別の問題なのだ。
分かりやすい情報ばかりが拡散され選択されることの危険性。
それは噛みやすく飲み込みやすい情報だけを摂取することで、読み手の理解力が下がってしまうこと。
分かりづらい情報に対する粘り強さがなくなり、簡単に分かるものばかりを無批判に受け入れてしまう。目に見えるものだけが全てだと思い込み、書かれていないもの、語られていないものに対する想像力が失われてしまう。
この傾向はちょうど、食べ物の咀嚼にたとえられる。
弥生時代の日本人は、一回の食事につき約4000回噛んでいたという。そこから一回の食事にかける咀嚼回数は時代が下るにつれてどんどん少なくなり、現代では約600回まで減少したといわれている。
戦前の日本人が約1400回だったことと比較しても、その減り具合は顕著だ。
食事の時間にも変化がある。弥生時代には1時間かけて食べていたのが、戦前には20分、現代では10分程度まで減少した。
昨今の「わかりやすく理解しやすい情報」があふれている状況は、まさに「よく噛まなくなった現代の日本人」とリンクしているように思えてならない。
咀嚼数が減少すると顎が十分に発達できなくなり、歯並びの悪化や運動能力の低下につながるほか、唾液が十分分泌しないことによる消化不良や、肥満のリスクも増大させる。
また、老年期以降の咀嚼力の低下は、認知症のリスクを増大させるともいわれている。
食べ物を十分咀嚼しないことによって弊害が起こるように、わかりやすい情報ばかりを摂取することの負の側面が、これからどんどん顕在化してくるような気がする。
ここからはさらに私論に依るが、ここまで「わかりやすい情報」ばかりがもてはやされる背景として「すぐに役に立つもの」への過剰な傾倒があると考えている。
科学技術は日進月歩で発展し、便利で使いやすいサービスは日ごと新たに増えていく。
レンタルショップに行って借りなければ見られなかった映画は今やNetflixでいつでもどこでも見られるようになり、本屋をはしごしてようやく見つけられるような本もAmazonや電子書籍で簡単に手に入る。そういう時代にわれわれは生きている。
世の中が便利になると、同量の効用を得るために必要な時間が減る。しかし時間は増えるわけではないから、どうしてもその効率化はどこかで頭打ちになる。
そして、便利さによる効率化の限界点が来たときに、人々が考えること。
「同じ情報を同じやり方で、より容易に、短時間で摂取できないか」
その結果、わかりやすい情報にアクセスは集中する。より手っ取り早く、手軽に咀嚼できるインプットの方法を編み出そうとする。
昨今、映画を早送りで見る人が増えているという。
こうした行動様式の変化とビジネス本のコミカライズは、根底でつながっていると思う。
「より便利に、手っ取り早く、楽して大きな収穫を得たい」という心理が、わかりやすさへの過度な傾倒の背後に横たわっている。
こうした心理を批判する気は毛頭ないし、する資格もない。
人間は元来怠惰な生き物であるし、「楽をしたい」欲求にしたがって科学や技術が発展していったのは紛れもない事実だ。
そのうえで、あえて言う。
「わかりやすい情報」にばかり触れているのは、危険だ。
ヒトはかつて狩猟・採集を行い、自給自足で暮らしていた。農耕・牧畜が発明されたことでヒトは同じ場所に定住するようになり、食材を自分で確保しないで済む人間が生まれた。
産業革命以降産業の組織化が進み、人間は食物をつくる生産者と、一方的に摂取する消費者に分かれた。今やこの二分化は国家レベルで進み、日本のように自力では国民の食糧を確保できない国々も多く生まれている。
「便利さ」の発展は、確かに人類レベルで多くの恩恵をもたらした。
しかし個人レベルで言えば、便利さによって自給自足でのサバイバル能力が失われてしまった。
現代において、食べられる草や木の実を判別できる人はほぼいないだろう。獣の狩り方や魚の捕り方を知っているひとも少数派のはず。
ぼくだって、身一つで無人島に放り込まれたらひと月持たずに餓死する自信がある。
「わかりやすい」に依存しすぎると、知的にサバイブする力が失われてしまいそうな気がする。
難解で、わかりづらくて、咀嚼に時間がかかる情報は、確かに難しいしめんどくさい。
途中で「わかりづらいわこれ!」と何度もシビレを切らすし、途中で投げ出したくもなる。
けれど、パッと見ただけで理解できないものに体当たりで向かっていく中で、ものごとをよく考えるようになる。
「これはどういう意味なんだろう?」「この内容は現実に当てはめると、どういう場合に該当するんだろう?」というふうに、問いを自分で生み出せるようになる。
「ここに書いていることは、もしかしたらこういう意味なんじゃないか?」という仮説が出せるようになる。
「ここの〇〇は、前に見た△△とつながってるぞ!」というように、異なる情報同士をつなぎ合わせたり、新たな気づきや発見ができる。
わかりづらい情報に触れることで、注意深く考える力が養われる。
あるものごとに対して「わかった」と納得することは、そのものごとに対する判断を停止することだ。
「この物事については、こういうことだと理解した」と認識を確定させて、それについてこれ以上考えることをしなくなる。
それ自体は脳のリソース配分を考えれば自然なことなのだが、この「判断を停止させる」というのが非常にヤバい。
考えるのと同時に、疑うこともやめてしまう。
わかりやすく耳障りいい情報で手っ取り早く「わかったつもり」になることで、その物事に対する別の考え方や、より深い理解に向かおうとする意識はごっそり奪い取られてしまう。
判断の停止は情報の無批判な受容につながり、真実と欺瞞を判別する力がなくなる。
先程も述べたように「わかりやすさ」と「有益さ」は全く別の評価軸だ。
けれどもし「わかりやすさ」を重要視過ぎて、「有益さ」を棄却することになったら?
その飲み込みやすさゆえに、無益などころか有害な理論を無批判に信じるようになったら。
ぼくは怖い。
わかりやすさに流されて、善悪の判断に無頓着になることが。
自分でも気づかないうちに、とんでもない暴論に肩入れしてしまうことが。
「手軽でわかりやすく、ためになる」コンテンツが支持される状況は、今後も続いていくだろう。
ぼくが何と言おうとビジネス本のコミカライズはなくならないし、youtubeの解説動画はこれからもどんどん増えていくだろう。
それがいいとか悪いとかではなく、時代の趨勢だ。
けれども、ぼく個人としてはこの流れに、ささやかながら抵抗していこうと思う。
カントの『純粋理性批判』を今読んでいる。初めて手に取ったのは大学2年生の時で、当時は書かれていることが全く理解できずに10ページを持たずして本を閉じてしまった。そこから数年の月日を経て、そろそろ上巻を読み終えようか、というところまで来た。
ぼくは、特別頭がいいわけではない。カントを読んでいるくらいでイキれるとも全然思っていない。
けれど、「わかりづらい」と格闘して考える力を磨いていく努力は、続けていこうと思う。
チルダで塗りつぶせ
日本語の面白さは、その表現方法の多様さにある。
漢字・平仮名・カタカナの3種類の表記の使い方や、細かな言葉遣いの違いによって、言葉の使い手のキャラクターを巧みに表現することができる。
「今日は晴れだ」「きょうはいいてんきでした」「本日ハ晴天ナリ」
同じ内容を表していても、表記の仕方で話し手のイメージが変わる。
ギャルの文体は一目でギャルのものと分かるし、オタク構文はなぜかオタクっぽさが感じ取れる。
逆に言えば、普段使う文の表現を意図的に変化させることで、それを見る人に与える印象を操作することも可能なのではないか?
ぼくは、そう考えた。
◆◆◆
子供の時から今まで、ずっとネガティブ思考でい続けている。
ネガティブよりも、ポジティブな方がずっと生きやすい。そんなことは百も承知だけれど、そうはいったって普段から悲観的な解釈を脳のプログラムが勝手に行なってしまうものだから、意識どうこうで変えられるものでもない。
最近は幾分マシになったけれど、それでも月に2回くらいはネガティブに支配されてしまう。
精神的に落ち込んでいるときには、文体も重苦しくなる。
絵文字は使わなくなるし、「〜なわけがない」「〜できる気がしない」など、強い否定の表現を多用するようになる。
沈んだ調子の言葉を見て、さらに負の感情は強くなる。
ぼくは毎日日記を書くようにしている。
その日起こったことや感じたこと、考えたことを自由に記録する。
するとどうしても、その時の精神状態が直に反映されてしまう。ネガティブな言葉は重く響き、一際異彩を放つ。
何より、自分のことながら見ていてあまりいい心地がしなかった。毒を撒き散らしているような気がした。
だからというわけじゃないが、いつからかちょっと表記に工夫をした。
語尾に伸ばし棒とエクスクラメーションマークをはさんで、「しんどい〜〜〜!」とか「もう無理〜〜〜!」って書き方をするようにした。
同じ内容だとしても、語尾を伸ばした方がいい意味でマヌケというか、なんとなく気が和む。
キツめな言葉を書いたとしても、印象をだいぶ柔らかくできる。
日記を書いているところをのぞかれた友達からは「ギャルみたいな書き方してんな」と言われた。
人の思考は、普段使っている言葉に影響される。
だとすれば、ふだんの書き言葉を少しいじってみたら、気分をちょっと変えられるのかもしれない。