中二病が治らない

そんな私の戯言です

訓戒

ときどき思い出す。

 

大学一年生の時、少しだけ記事作成のアルバイトをしてた時期があった。

当時サークルで仲の良かった人から紹介され、なんか面白そうだし、授業を受けながらでも稼げそうだからと、なんとも大学生らしい理由で引き受けた。

アルバイトとは言ったが、実態はむしろ業務委託のようなもので、管理者からLINEで渡されたテーマに沿って1500字程度の記事を書く、というのがおおまかな仕事内容だった。

テーマはタイトルと2、3個の小見出しがあらかじめ決められていて、それらに準じた内容を書かなければいけなかった。

1ヶ月サイクルで仕事は進み、月初めに各人がその月何本記事を仕上げるかを決める。ぼくはだいたい2〜4本担当していた。

 

そこでの仕事ぶりはまあ、ひどいものだった。

機嫌は守らないわ、記事は適当なまとめサイトの内容をツギハギにしてどうにか字数を満たしたものを提出する、という有様だった。

当時はライティングを完全に甘くみていた。記事を作るためにリサーチや推敲が必要だとは知らなかったし、SEOなんて概念は想像すらもできなかった。

結局、そのバイトは数ヶ月で「割りに合わないな」と思ってやめてしまった。

 

ときどき思い出す。

過去の未熟さを思い出し、未来へのいましめとするため。

 

ライティングは、ただ書けばいい、というわけではない。

その文章の存在意義を定め、関連する情報を集め、編纂し、構成をまとめ、そこから初めて文を作る。完成させて終わりではなく、文章を見直して推敲・手直しを行う。

ここまでやってようやく、文章で金をもらえるのだ。

 

「特定のテーマを調べて書く」とき、当時のぼくはその対象に興味を持とうとしなかった。ただお金をもらうためのコストとしてしか考えておらず、どのような人が読むのか、狙いは何なのかを考えることもしなかった。

納期を守るのだってそうだ。一つの仕事には多くの人が関わっていて、一人が期限を守らないことでその仕事に携わる人全員の計画が狂う。場合によってはその狂いが莫大な損失をもたらす可能性だってある。

そもそも、納期は「ここまでに仕上げます」という書き手と編集の間に成立する約束事だ。

それを破ることは信頼の失態となり、将来的には仕事をもらえなくなる。

誠実さは言葉ではなく、行動で示す。

ぼくがその気づきを得たのは、それからさらにいくつもの失敗を積み重ねてからだった。

 

書いていて、なんだか新入社員のまとめノートみたいだな、と思う。

 

もちろん、趣味で文章を書き続けていくつもりなら、そんなことは気にせず、好きなようにやればいいのだろう。

ただ、一旦それを仕事にしたいと思ったのだったら、そこに価値が生まれるのはなぜか、仕事して金をもらうとはどういうことか、しっかり身に刻む必要がある。

人生で初めて、本気で成功したいと思ったことだ。

やるなら徹底的にやりたい。

 

自分の成長はなかなか実感できない。

「周りはみんな前進してるのに、俺はずっと同じところで足踏みしてる」と自己嫌悪におちいることもしばしばだ。

でも、過去の自分を振り返って「未熟だな、あの頃の俺!」と思えるんだったら、多少は前に進んでるんじゃないだろうか。

つぶやきたい僕ら

高校1年生の時に初めてアカウントを作ってから今日まで、ずうっとTwitterが生活の一部に食い込んでいる。

久しぶりに会った友人からはよく「Twitter見てるよ」「最近あんま呟いてないね」みたいに、もはやTwitterが生存確認のファクターになっているみたいだ。

実際、自分の身の回りで積極的にTwitterで発信している人は多くない。近況報告はだいたいInstagramのほうでやっている。

高校生くらいまではみんなたくさん呟いていたのに、大学入学、進級、進学、就職とステージの変化にしたがってアクティブユーザーは徐々に減っていき、今では通知欄の半分が黄色い男のアイコンで埋め尽くされている。

 

ぼくがTwitterを続けているのは、日々感じたことを吐き出したいからだ。

「いや、そんなことは日記に書くか、誰かにLINEしろや!」

もっともだ。もっともなのだが違う、そうじゃない。


Twitterに書きたいようなことは、自分一人に押しとどめておくにはあまりに勿体なく、誰か一人に打ち明けるにはあまりに申し訳ない。

誰も聞いていないだろうけど、誰かに聞かせたいこと。
そんなことをぶちまける。エゴイズム丸出しの行動原理だ。

 

このごろ、SNSを続ける人の心理についてよく考える。
ビジネスや趣味といった明確な目的があるなら別だが、そうでもないのにTwitterを使い続けている人の特徴として「臆病だが自己顕示欲が強い」というものがあるんじゃないか。

本当に健全な人間はSNSをやらない。誰かに対して特別自己を大きく見せる必要性を感じておらず、等身大の生活に充実感を感じているからだ。

自己顕示欲が強くてアグレッシブな人にとっては、己を主張する手段としてTwitterはあまりにも効率が悪い。InstagramとかPodcastとか、もっと感覚的に訴えやすい媒体を使う。

「個の時代」と言われて久しい昨今、自分の存在を世界に表明する手段などいくらでもあるのに、わざわざTwitterという手段を選んでいる人。
そんな人は「己の存在を誰かに認識してもらいたい一方で、過度な注目は浴びるのが怖い」という、一見矛盾した感情を抱えているのだと思う。

 

ここまで書いていて、ほとんど自己紹介のようになってしまった。

そうです。だからぼくらは、つぶやきたいのです。

たとえばその相手が、虚無だったとしても。

面白がる

誰かに自分のことについて説明するとき、「他人にあまり興味がない」という表現をよく使う。

誰が誰と付き合ってるとか正直どうでもいいし、おおよそ自分に関わりのない人間に貴重なエネルギーを使いたくない、みたいなことを併せて言っている。

 

ウソだ。本当は興味アリアリだ。

 

好きなアーティストが同じ人がいればすぐにでも話しかけて語り合いたいし、街中で美人を見かけたら目で追っかける。超チラ見する。

なのに人前では「興味ない」と言い放つ。

どう考えてもハスに構えてるだけなのだが、一応まっとうな理由はこしらえてある。

人と関わると、ひどく疲れるのだ。

 

ぼくは根っからの内向型なので、人と話すことはエネルギーを放出する作業になる。

内向性の強い人間は、会話の際にまずは相手の発言、声色、表情、仕草といった情報を事細かにキャッチし、相手の思考展開や精神状態がどのようになっているのか、推測を行う。

その後、与えられた仮説をもとに、自分がとるべき最適な行動は何か、思考をフル回転させる。

何を言ったらウケそうか、逆にシラケそうか、この例えは相手に通じるか、この表現は相手の逆鱗に触れやしないか、みたいなことを瞬時に脳内でチェックし、最終的な発言やリアクションを実行する。

内向型人間にとっての対人コミュニケーションは、いわばエモーションの総合格闘技なのだ。

なので人とみっちり話した後はたとえそれが親友の間柄でもくたくたになるし、一人の時間を作って消費したエネルギーを充填しなければならない。

また、会話が複数人になれば負荷はさらに強まり、許容量を超えてフリーズする場合がある。大人数の飲み会なんかは完全にキャパオーバー。しんどい。

 

(いや、今日は会話下手の話をしたいわけではない!)

 

とにかく、内向型人間特有の事情から「他人に興味がない」と言っておくことで、必要以上の会話を避けエネルギーを節約するようにしていた。

けれど最近になって、むやみにこういうのはあまりよくないな、と思うようになってきた。

「興味がない」と外部を突っぱねると、どんどん内へ内へと意識が閉じこもっていく。

過度な内省は視野を狭め、独善に至る。

誰かがかけてくれた言葉も「それはお前の見解であって、俺には関係ない」って具合に、人の話に聞く耳を持たなくなる。

もしかしたらそのアドバイスが、さらなる飛躍のきっかけになるかもしれないのに。

 

自分を守るために無関心を装うことは自分の殻に閉じこもることであり、確かにあったはずのチャンスを見過ごしているのではないか、と思うようになった。

こりゃいつまでも「俺、他人に興味ねェから」なんて言ってられないぞ、って具合に。

 

とはいえ、急に他人に興味を持とうと言っても、なかなかうまく出来るものでもない。

どうしたものかと思案していたとき、ちょうどその解決策となりうる出来事があった。

 

それは今日の新入社員研修のこと。

自分の現状と目指したい未来をどう繋げたらいいのか、ぼくは社員さんの話もよそに考えんでいた。

その時ふと「取材をするように研修を受けてみてはどうか」というアイデアに至った。

とにかく話を聞き、解明し、全体像を浮き彫りにするよう努める。

効果はてきめんだった。

気になったことを片っ端から質問し、講義の全体像を掴もうとした。

質問をしようとすると観察眼が鋭くなり、与えられた情報から疑問点や仮説をより見つけられるようになる。

質問を通じて仮説を検証することで、対象への興味が自然も湧き上がってくる。

 

順序が逆だったのだ。

興味を持った後にアクションを起こすのではなく、アクションを起こすことで興味が湧き上がってくるのだ。

 

これはもしかしたら、仕事以外のコミュニケーションでも使えるのではないか?

検証してみる価値はある。

今度知らない人やそこまで仲良くない人と話す時は、まず何かしら会話をぶつけて、そこから興味を引っ張り出してくればいい。

興味が湧かなきゃ、その人とはご縁がなかったってことだ。

「他人に興味がない」なんてハスっている場合じゃない。

 

 

 

決意表明的な何か

明日にはもう、学生ではなくなる。

カラオケの学割料金はもう使えないし、国民年金を支払わないといけなくなるし、映画を見るにも1800円を支払わなければいけない。

 

大学時代は敗北ばかりだった。

サークルには馴染めず、勉強も真面目にやらず、恋愛はからっきし、就活は難航を極めたあげく、最後は半ば燃え尽きた形で終えてしまった。

唯一人より取り組んだことは散歩で、6年間歩き続けたおかげで山手線の内側は大体踏破した。

やりたいことはノートに殴り書きのままで、自堕落な日々ばかりが記憶に残る。

 

辛い記憶の味は苦い。そして、舌に永く残る。

楽しかった思い出の味は角砂糖のようにすぐに消えてしまうのに、挫折や失敗の経験は不快な後味を残し続ける。

特に後悔の念はいつまでも舌にこびりついて、なかなか消え去ってはくれない。

 

自分で思い起こして、いささかネガティヴが過ぎる気がした。

 

理想が高すぎるのだろう。

生きることに対して「正解」を求めすぎている。

誰の目から見ても間違いのない人生を、自分の力だけで勝ち取りたい。

そんな気持ちを未だに引きずっている。

それは劣等感の裏返しで、昔自分をバカにしてきた奴らの記憶が抽象化されたイメージとなって、俺の脳裏に残り続けているからだろう。

そもそも生き方に客観的な「正解」があると思っていること自体、自分の人生に他者からの承認を求めている証拠だ。

自分に自信がない。だから「お前はこれでいいんだ」って、誰かからお墨付きをもらいたいんだ。

 

思えば、大学時代はずうーっと、誰かに自分の存在を肯定してもらいたくて必死だった。

「自分らしくいたい、他人のことなんて気にしない」と口では言いながらも、内心では他人の視線に常におびえていた。

人に好かれるような自分でいたくて、でも自分には無理だと心のどこかで諦めていた。

結果、自分が本当にやりたかったことや挑戦してみたかったことに踏み出せないまま、時間だけが過ぎ去ってしまった。

現実には起きていないことに恐怖して、目の前にあったはずの楽しみを見つけられずにいた。

そうして残ったものは、後悔だけだったみたいだ。

 

過去に対する後悔の念と同じくらいに、「自分にはもう時間がない」という未来への焦燥が強くなってきている。

ぼくは間もなく25歳になる。四捨五入したらもう30だ。

遅くとも35歳までには、自分が生涯をかけて関わっていくフィールドに身を置きたい。

あと10年。時間がない。

今のままでは、到底間に合わない。

もっと鍛錬が要る。経験を積む必要がある。

もうこれ以上ウダウダやっている暇はない。

もうこれ以上後悔はしたくない。

そんな気持ちが足を逸らせ、心を騒つかせる。

 

過去を思えば後悔に苛まれ、未来を思えば不安に駆られる。

後悔や不安が生まれるのは、"今"以外の時間に着目しているからだ。

後悔は過去の損失評価であり、不安は未来のリスク評価。

どちらにせよ、今「この瞬間」には関係ない。

これまでの自分は、過去の損失や未来のリスクに過剰に囚われて「俺には無理だ」と戦う前から諦めてしまっていた。

自分の殻に閉じこもっているうちは、負けずに済むのかもしれない。

けれど、そうして何年も殻に閉じこもって久しぶりに外に出て目にしたのは、自分の遥か先にいる友人たちの姿だった。

誰もスタートの合図は出しちゃくれない。自分の意志で走り出すしかない。

その気づきを得るまで、ぼくは24年かかった。

 

大学時代を通じて、とにかく色んなことを考えた。

自分の内面のこと。人の心のこと。

今世界で起こっていること。

哲学や、ヒトの認知と解釈について。

文化の多様性と、そこから必然的に生じる「わかりあえなさ」。

経済のことと、「あるべき社会」の姿。

自分を見つめ直し、社会を見つめ直すうちに、それらをもっと知りたい、伝えたいという気持ちが湧き上がってきた。

その気持ちは、誰に強制されたものでもない、自分自身で築き上げたものだ。

だからこそ、そいつを唯一無二の「武器」に磨き上げていきたい。

クソッタレな世の中を自由に泳ぐための船として、鍛え上げていきたい。

 

そのために、過去も未来も今は見ない。

ただ、目の前の「やるべきこと」「できること」にだけ着目する。日々努力する。

それは仕事であって、書くことであって、家事であって、買い物であって、遊ぶことであって、女性と会うことである。

後悔を残さないために、不安に囚われないために、一日一日を「これ以上なかった」と言えるくらいの生き方をしてやるんだ。

 

生きる上で、何が正解だなんて分からない。

たぶん、生涯わからないのだろう。

けれど「今できること」「今すべきこと」なら、辛うじて分かる。

それだけを追い続けていこう。

今、この瞬間に着目するんだ。

毎日を「悔いのない1日だった」と胸を張って言えるよう、全力で生き続けてやるんだ。

生きることは面倒だ

このごろは会社や行政・民間サービスなど、色んな手続きが立て続けにあって、へとへとになっている。

これから本格的に社会人になったら、さらに生命保険への加入や積立投資なんかをやる必要が出てくる。税金も払わなきゃいけないし、さらに一人暮らしをしたら不動産とのやりとりや電気・ガス・水道なんかもなんとかしなきゃいけない。

万一独立なんかしたら、確定申告やら健康保険の支払いやら、何から何まで自分の手でやるハメになる。

 

この国で生きるためには、踏まなきゃならない手続きが山のようにある。

それらを思うとき、ぼくはやっぱり「面倒くさい」と思ってしまうのだ。

 

生きることは楽しい。

美味しいものを食べたり、きれいな景色を見たり、素敵な女性と良い時間を過ごした時には、生きることの素晴らしさを全身で享受したくなる。

 

生きることは素晴らしい。

けれども、生きることに付随する「面倒くさい」ことが、あまりに多くはないか。

貯金も納税も家賃支払いも確定申告も、社会の中で生きている人たちはちゃんとやり遂げているなんて!

ぼくは驚嘆した。

 

カフェで仕事をするOLも、

スーパーのレジ打ちをする主婦も、

夜の電車で居眠りするおじさんも、

ふだん何気なく街中ですれ違う人々の多くが、生きるうえで避けては通れない数多くの面倒ごとをこなし、それがさも当然であるかのように街を歩いていたなんて!

 

社会人には責任が伴うとよく言われる。

その責任が人格を作り、風格を与えるのだと。

けれど、こうも言えないか。

社会人と呼べる人たちは、自らが生きる上で必要な面倒ごとを自分の力でこなしている。

だからこそ、一人の自立した存在として社会の構成要素になれていると。

 

眠りたい?じゃ手動かそっか

しんどい。

 

ここ数日睡眠時間が微妙に足りていないのと連日の肉体労働で、動きたくなさがピークを迎えている午後11時。

本当ならさっさと寝てしまいたい。
残っている面倒ごとは全て明日にまわして、今日はもう布団にこもってしまいたい。

 

そんな気持ちを何とか抑えて、今日も記事を更新するために椅子に座る。
ブルーライトカットメガネをかけ、ブラウザを開き、指を動かす。

すると不思議なもので、いつのまにかやる気が生じてくる。
「今日はもうなにもできない」と思っていても、案外余力が残っていたりする。

 

◆◆◆

 

何かを成し遂げようと思ったら、日々の絶え間ない努力の積み重ねがいる。

ぼくは自分のために、毎日記事を更新する習慣を続けている。
まだ暇があるおかげで、10日くらい前から今日までなんとか続いている。

 

そして、継続の最大の敵は「今日くらいサボってもいいだろう」という甘えだ。

 

継続が肝心なものの一例に、ダイエットが挙げられる。

この世にダイエットの本は数多あるが、失敗する人はそれ以上に多い。
やせるための習慣を維持できる人は、ほんの一握りだからだ。

実のところ、確実に痩せる方法というのは一つしかなくて、1日の消費カロリーが摂取カロリーを上回る生活を続ければいいだけなのだ。

そのために食生活と運動習慣を見直す。
解法は単純だ。けれども、実践が難しい。
やせるためには「もう少し食べたい」「今日はサボりたい」といった怠惰への誘惑になんとか打ち克ち、それまでの生活習慣を変えていく必要がある。

結局のところあらゆるダイエット本は「課題解決への過程をよりラクにする提案」を、手を変え品を変え発表しているに過ぎない。

 

そして、ヒトは本能的に保守的で、そして怠け者だ。

「1日くらいいいだろう」とサボってしまうと恒常性がはたらき、それ以前の怠惰な生活へと自身を引き戻そうとしてくる。
このホメオスタシスに打ち克つことが、己を律し努力し続けるために重要になる。

 

そのために必要なものは何だ?
やる気か?アプリか?仲間か?
そのどれもが正しいのだろう。けれど、ぼくの答えは違う。

怠惰に打ち克つカギは、身体を動かすことにある。

 

これは経験則だが、どうやら人間の脳は体の状態に大きく影響を受けるらしい。
体が程よい緊張状態にあるときは頭も冴え、弛緩しているときは頭の働きも鈍る。

「さっきまですごく眠くて何もやる気が起きなかったけど、少し体を動かしていたらだんだん意識がしっかりしてきた」ということは、皆様も経験あるのではないだろうか?

実際に「数分間の運動が脳のパフォーマンスを上昇させる」といった研究結果が、各国の研究機関から発表されているという。

 

感情は思考に先立つ。そしておそらく、身体は感情に先立つ。

「〇〇を頑張りたいけれど、なんとなくやる気が出ない」とゴロゴロしていたら、逆に体がリラックスしてどんどん動きづらくなる。

そういう時には、無理やりにでも体を持っていく。
「毎日30分勉強する」と決めているなら、教材を開いて机に座るだけでもだいぶ違うと思う。

体が乗り気になれば次第に頭も心も乗ってくるだろうし、それでもやる気が出ないなら「それなら仕方ない」と諦めてしまえばいい。

「動きたいけど動きたくない」とウダウダしているよりは、よっぽど生産的だ。

 

そうこうしているうちに、文字数は1200字を超えていた。
ぼくの体も、ずいぶん正直者でノせられやすいみたいだ。

感性を殺さないために

 

昔からの癖か、きたる環境の変化を思ってのことか、心のどこかの不安をぬぐい切れない日々が続いている。
正直、働くことが怖い。

長時間の残業とか社内の人間関係とか、適応障害とかドロップアウトとか、不安の原因はいろいろある。
けれども、上に述べたものは言っても外的要因だから、なんだかんだいって最終的には何とかなるだろう、という根拠のない自信がある。

本当に怖いのは、内的要因の方だ。

 

働き始めていくと、活動時間の大半を仕事の中で過ごしていくことになる。
そうすると必然的に、思考のメモリに占める仕事の割合も大きくなっていく。
そしてそれは相対的に、興味のある学問とか気になっている映画とか、世界に対する根源的な問いとかみたいな、必要性は薄いけれども魅力的な思考の存在が相対的に小さくなる。
結果、興味の幅が縮まり、あらゆるものに無感動になってしまうのではないか。

「想像力が足りない」と批判していた誰かの言葉を、自分の口で言ってしまうのではないか。

ぼくは、働くことで自分の感性が死んでしまわないか、それが一番怖い。

 

最近見た映画『花束みたいな恋をした』でも似たようなシーンがあり、ぼくの不安はさらに現実味を持ったものとして迫ってきた。

菅田将暉演じる青年が恋人との生活のために就職したことを機に、忙しさと環境の変化の中で、それまで大事にしていた映画や音楽その他ポップカルチャーへの興味を失い、ついにはかつて批判していたような人の言葉を自分から口にするようになっていた。

 

今さっき「感性が死ぬ」と言ったが、少し間違っていたみたいだ。

感性は勝手には死なない。
忙しい日々の中で、自分自身で殺すのだ。
他の誰でもない自分の意思で、自らの感性を使うことを放棄するのだ。

 

生きるためには働かなければいけない。
年を取るごとにどんどんと「考えなきゃならないこと」が増えてきて、経験と責任が重く圧し掛かってくる。
けれども、同時に自分の感性を殺さないように、何とかうまくやっていくことはできないのだろうか?

 

そのためには毎日少しでもいいから、思う存分感性を働かせる時間を、無理やりにでも確保することが必要なのだと思う。
帰りの電車でTwitterを眺める代わりに本を読んだり、週に一度は映画を観たり、月に一度は美術館に行ったり、あの手この手で感性を生かす試みを続けるべきなんだろう。
毎日ブログをアップし続けているのも、その一環っちゃあそうだ。

それもまた、一つの努力といっていいのではないか。

 

ここまで書いてなんだが、正直、どうしてこんなに自分の感性を大事にしたいのかがよくわからない。

人の心なんて曖昧なものだし、仮に変わってしまったとして、しばらく経てば何事もなかったかのように慣れてしまうのが人の性というものだろう。

それでも「大事にしたい」と思うのは、多分理屈では説明できない。だからこそ、とても大切なことのように思える。