イジり・イジられ・フリ・フラれ
自分自身に何かしらの才能があるとすれば、それは人からイジられる才能だと思う。
物心ついた時から今まで、所属したコミュニティのほとんど全てでイジられキャラになっていた。決して狙ってやっていたとかではなく、気が付いたらいつのまにか周囲からそう扱われるようになっていたので、これはもうそういう星のもとに生まれたんだろう、となかば諦めている。
そんなことを高校の友人に話したら「なんだかんだ愛されてるな、お前」なんて、好意的に受け止めてくれた。
そう言ってくれる人たちのおかげでぼくは何とかやっていけてます。ありがとう。
今でこそ自分のこの特性をポジティブに捉えられるようになったけれど、中学・高校生くらいのころは本当に嫌だった。集団で遊んだりしたときに、自分だけが他の人と比べてぞんざいに扱われたりすると、なんだか自分が下等な存在に思えてみじめでたまらなかった。そこでうまく返して笑いに変えられるくらいの度胸と図太さがあればよかったのだが、わりかし繊細だったぼくはそこでシュンとしてしまったり、本気でムカツいたりしていた。
イジる/イジられるの関係はプロレスのようなもので、ギリギリの掛け合いと予定調和の中で繰り広げられるエンターテイメントなのだ。ただ、仲間内での雑談やわちゃわちゃにおいてはレフェリーはいない。たまにバランス感覚にすぐれた人が仲介役になることはあるが、まあレアなケースだろう。
そうなると、大事になってくるのはイジり側とイジられ側の信頼関係だ。どこまでがセーフでどこから先がNGかという線引きを明確にして、互いにリスペクトを忘れない。イジりに対して本気で怒ったら総合格闘技になってしまうし、イジる側の度が過ぎればそれは一方的なリンチになってしまう。イジりと称してその実がイジメになってしまうのは、絶対にあってはいけないことだ。*1
ダウンタウン以降のお笑いバラエティーに端を発するイジり/イジられの関係性がそもそも受け付けられない人も中にはいるだろう。
賛否両論あるとは思うが、ぼくはイジり役とイジられ役に分かれるコミュニケーション形式を、おおむね好意的に捉えている。
お笑い好きということもあるけど、自然発生的に進行する一種のロールプレイング的な掛け合いに、人と人との関係性の髄が詰まっているような気がするからだ。
一般にイジられる側の人は、無茶ぶりやリアクションなど自分の行動によって場を盛り上げようとする。イジる側のほうといえば、ネタを振ったりあえて挑発的な言葉を投げかけることによって、イジられる側が行動を起こすきっかけを作る。
もっと言えば、イジられる側は自ら笑いを生み出す。
イジる側は自力では笑いを生み出さない代わりに、イジられ側から笑いを引き出す役割を任っている。
これはどちらが良くて、どちらが悪いという話ではない。動物がたんぱく源を植物から摂るか、他の動物から摂るかの違いみたいなものだ。*2
イジられ役が生み出し、イジり役が引き出す。
そう考えると、世の中の仕事ってイジる/イジられるの2種類でカテゴライズできそうだ。
メーカーの開発職はイジられ役で、営業やマーケティングはイジり役だ。
週刊連載のマンガ家は担当の編集者にイジられることで作品を世に出し、読者に読んでもらえる。
大学の研究者は天才的なイジられキャラだし、広告代理店なんかはイジりのスペシャリスト集団だ。
そんな風に当てはめてみると、自分はイジられキャラのくせして、イジり系の職種ばっかり見ていたなーと気づいて笑ってしまった。
必死こいて自己分析なんてことやっていたはずなのに、自分のことを全然把握できていなかった。
また誰かにイジってもらわないとな。