遊ぶ人
高校時代の友人が、下宿先から引っ越したことをTwitterを通して知った。
そこは高校の友人グループでの集会場所になっていて、毎年年末に彼の家に集まっては、朝方まで酒を飲んだりボードゲームに興じたり、身の上話に花を咲かせたりした。
そんな経緯もあって、思い出の場所、自分のにとって安らげる場所がなくなってしまって少し寂しい。暗くなるころに出かけて田舎の方へ電車に乗っていくことも、寒空の下遅れてくる仲間を迎えに駅まで歩いていくことも、明け方の太陽をもろに浴びながら帰途へ着くことももうないのだな、と思うと途端に愛しくなってくる。
彼の部屋で過ごす時間の中で、何より印象的だったのがボードゲームだ。
下宿していた友人はテーブルゲームに精通していて、部屋のラックにはボードゲームの箱が高く積み上げられていた。
ラインナップも多種多様で、UNOやモノポリーのような誰でも知っているゲームから、そこでしか見たことのないようなマイナーなゲームまで、選り取り見取りだった。
その中でも、ドミニオンと呼ばれるゲームにぼくと仲間たちは魅了された。
このゲームは簡単に言えば「デッキの作成とカードのプレイを同時並行で行うTCG」だ。
プレーヤーは小国の領主となり、自らの勢力を拡大していくという体でゲームを進める。
人・もの・カネ・土地などの資源をカードで表し、プレーヤーは貨幣の代わりとなるカードを用いて資源を獲得する、というプロセスを通してデッキを構築しながらゲームを進める。ゲーム内で使用できるカードの種類は数が決められており、使用できるカードの組み合わせ(環境)は多岐にわたる。
この「デッキを作る」工程が、とても面白い。
プレーヤーの個性がモロに出てくる。
手堅くアドバンテージを稼ぐタイプもいれば、ド派手なコンボを狙うタイプもいる。
どのカードを何枚入れたいだとか、このカードを軸にして運用したいだとか、各々が思い思いに戦略を練って、プレーを進めていく。
使用できるカード群からいち早く自分の戦略を考えること、プレイングから相手の戦略を推測すること、そこに醍醐味があった。
「裏切りの工作員」*1というゲームも常連のラインナップの一つだった。
これは人狼にカードゲームの要素を加えたもので、プレイヤーは いくつかの陣営に分かれて、誰が味方でだれが敵かをプレイングから判断しながら、各々の勝利条件を満たすべく行動していく。
面白いのは、各プレイヤーに1人ずつキャラクターカードが割り当てられ、それぞれに固有の特殊能力と勝利条件が付与されている点だ。このシステムがゲームに複雑性を生み、高度な読み合いを要求される。
最近で印象深かったのは「ワードバスケット」というゲームだ。
これはカードゲームで行うしりとりだ。
前2つとは異なり、瞬発力と発想力、そして語彙力が求められる。
しかし、宣言する言葉はほかのプレイヤーが知っている言葉であることが条件で、専門用語やマニアックな語彙は認められないリスクがある。けれど、文字数の多い言葉や難しい言葉で抜けられた時の気持ちよさはハンパではない。
他にもいろいろあるが、この辺にしておこう。
ボードゲームで遊ぶと、本来遊びとは大変クリエイティブな営みなのだな、ということを思い出させてくれる。
ゲームをプレイするにあたっては、まずルールを憶えなければいけない。参加者はルールを理解しそれに従うことを共通の認識として共有することで、初めてプレイヤーとしてゲームに参加することが認められる。
そしてプレーヤーはルールの範囲内で自分が優位に立つ方法を考え、他のプレイヤーのたくらみを阻止しながらも、勝ち筋をつかむための行動をとっていく。
場合によっては、プレイヤーの間でローカルルールが設けられることもある。実際にプレーした中で感じた違和感や「こうしたらもっと面白くなるだろう」というアイデアをプレイヤー間で共有して、全員の同意を得たのちにそれらをルールに反映する。
ルールとはすなわち、ゲームにおける枠組みと約束事の体系だ。
ゲームの世界観を形成する枠組みもプレイヤーの行動を規定する約束事も現実にモノとしては存在せず、虚構に他ならない。
子どものころやった、ごっこ遊びを思い出していただきたい。
おままごとをする際、家族構成はどうとか時間帯はいつごろか、みたいな舞台設定を行い、次に母親役はだれとか子供は誰がやるかといった役割分担を行って、初めて実行に移される。
この時、参加者は舞台とそれぞれの役柄を守ることを共通の約束事として共有する。
母親役の子は食事をちゃんと作るものだし、犬役の子は言葉をしゃべっちゃいけない。
ぼくは子供のころ戦いごっこをよくやっていた記憶があるが、これもまた一緒だ。
なり切るキャラクターを最初に宣言し、そのキャラクターが使う技のみ使うことが許される。仮面ライダーがスペシウム光線を使うのはナンセンスだ。約束事を破ることになるから。
ユヴァル・ノア・ハラリは『サピエンス全史』*2で「ヒトは虚構を作り上げ、共有することで文明を発展させてきた」と論じていたが、ボードゲームやごっこ遊びはまさに、虚構を共有することで成立している。
現実に存在しないものごとを想像上の枠組みによって形作り、約束事によって制限を定める。場合によっては自分たちで枠組みや約束ごとを新たに作り出す。
メチャクチャ高度なことやってんじゃん。超クリエイティブじゃん。
ぼくらは成長するにつれて、遊びの中のクリエイティビティをなぜか放棄していく。
ごっこ遊びはテレビゲームに替わり、ゲームはいつしかショッピングになり、成人するころには遊ぶイコール酒を飲むor娯楽施設になってしまっている。
虚構と主体的にかかわる代わりに、できあがったハコの中でもっと感覚的な刺激を楽しむようになる。
それが悪いこととは決して言わないが、どことなく寂しい感じがする。
お酒の力を借りたり、出来合いのハコで遊ぶのももちろん楽しいけれど、たまには童心に帰って、虚構にどっぷり漬かりながら遊んでみるのも悪くないぜ。
そしてできれば、自分たちで0から遊びを作り上げたりなんてしたら、きっと最高に楽しいぜ。
ぼくにはひそかな夢がある。
働き始めて、今よりもう少し年を取って、稼ぎに余裕が出てきたら、都内のどっかのアパートの一室を借りて、そこを仲間内での遊び場にするのだ。
望むらくは、ぼくがその時まで虚構を楽しむ気持ちを忘れずに持ち続けていることを。