中二病が治らない

そんな私の戯言です

6年後のぼくは

個人的な話で恐縮だが、先日24歳の誕生日を迎えた。

 

まさか24にもなって学生、それも学部生でいるとは思ってもいなかった。
少なくとも、10代のころに思い描いた未来予想図とはずいぶんかけ離れたところに来てしまったなあ、という感じはする。

18歳のころのぼくは、今現実に存在している24歳のぼくを見て、どんな印象を受けるだろう。
満足するだろうか、落胆するだろうか。
それとも、軽蔑するだろうか。

とはいえ、6年後の姿をイメージしていた「現実の18歳の自分」もまた、12歳のぼくが思い描いていた18歳の自分の姿とはずいぶん乖離していた。
当時を思い返すと、自分は絶えず自己嫌悪にさいなまれていたな、と感じる。
情けない過去を悔いて、今一つ冴えない現状に臍を噛み、未だ現実でない未来に一縷の希望を託していた。
現状は否定すべきものであり、克己と超越を繰り返した先にいる、未来のある地点の「ジブンノスガタ」こそが肯定すべき存在だと。
今思えば、なんとも息苦しい世界で生きてたなー、と我ながら思う。

さて今はどうか。
24歳の自分は、今のままでいいとは全然思えないが、それでも現状の自分もまあ悪くないよな、なんて肯定できている。

この数年間ですごく変わったな、成長したな、という実感は薄いが、それでも自分の中で何がしかが変わったのだろう。

あるとすれば、それは認識の変化だ。

 

思い通りの人生を歩めている人なんて、果たしてこの世にいるのだろうか。
おそらくこの世にいる全員が、大なり小なり「こんなはずじゃなかった」という思いを抱えているに違いない。
けれど、そのことで自分を本気で責めている人はそこまで多くはなくて、大部分の人は現状の自己をそこそこ肯定している。

それはなぜか。

「理想ばっか見ていてもやってられない。現実を見ないと」
なんて言われればそれまでだが、それじゃあ味気ない。もうちょっと掘り下げてみよう。

 

ぼくらはふつう、過去・現在・未来を1本の直線でとらえ、その直線上に自分の人生を結び付けがちだ。
けれど実際には、生きることとその時間経過はもっといびつな曲線で表現され、未来へ進行するベクトル(未来への志向と行動量)は刻一刻と、それこそ1日単位で変化する。
ヒトとして生きていく以上、ぼくらは肉体という小舟に頭と心を乗せて大海に帆を進めることになるわけだが、意志のいかんにかかわらず、どうしたって現状と理想の進路とのズレは絶えず生まれ続ける。時には波や風に舵を取られてしまうかもしれない。内的・外的要因にさらされるたびに、軌道を修正したり進路を変更するなどして、舵を取り続けなければならない。
後になって省みた時に、舟が進んだ軌跡のことを、人生と言うんじゃないか。

未来のある時点で自分がどこにいたいかなんて、実際はコントロールできない。
自分が決められるのはベクトルを定めること、すなわち

①”今"自分はどうなりたいのか

②そのために自分は何をするのか

その2つだけだ。

 

この時間感覚に気づいてから、夢や理想を掲げることに意味を感じなくなってきた。
というより、今によりフォーカスを当てるようになった、という表現が正しいだろう。
現実になる見込みの薄い未来に目を向けるくらいなら、今この瞬間自分に何ができるのか、何をすべきなのかにより注力しよう、そう考えるようになった。

舵手たる心と頭は、そこに目を向けなければ。

嵐に巻き込まれるかもしれない。船体が破損するかもしれない。
それでも、無我夢中で舵を取り続けるしかないのだろう。
たまたま漂着した先に、思いがけない宝物があるかもしれないだろう?

 

30歳のぼくがどうなっているかは、24歳のぼくには皆目見当がつかない。
今の時点で考えてみたところで、現実は予想もつかないところにいるに違いないから。

これからの6年間を思い返して「まあ、結構面白かったよね」と思えれば、それで良しとしようか。