中二病が治らない

そんな私の戯言です

何のためのマナーだ

Web会議でのマナーを事細かに指示してくる講師がついに現れやがった、と友人がTwitterで愚痴っていた。
いったいどんな次第だろうと思ってネットで調べてみると、これは確かにそうだなと頷けるものもあれば、こんなところ誰が気にするんだろう、なんてマナーまで様々だ。
ディスプレイの位置に上座・下座が存在すると知った時は、さすがにひっくり返った。

 

マナー講師などと言われる連中が私腹を肥やしているのは気に食わないが、ぼくはマナーやしきたりそれ自体は存在してしかるべきだと思っている。

特にWeb会議のような、急速に普及して皆がその扱い方に戸惑っているような行為に関しては、円滑に進めるためのノウハウを示してくれるなら大分やりやすくなるだろう。
ある年代以上の場合、アプリケーションの仕組みを理解するよりも自分の振舞い方を憶える方が手っ取り早い、という事情もあるのかもしれないが。

けれど、就職面接でのノックの回数だとか、言葉の一語一句まで事細かに指示されるような厳しすぎるマナーの存在には、正直息苦しさを感じる。
そこまで厳密に守ることに意味はあるのか。
受け取る側は所作の少しの違いを、本当に失礼だと感じているのか。
だとしたら、それは何に起因するのか。
何のために存在するのか、する側もされる側もわかっていないマナーを「そうするのが普通だから」という理由で続けることは、全くもってナンセンスだと思う。

 

マナーの存在意義、それはほかの人や、所属するコミュニティに対し「私はあなたの仲間ですよ」「私はこのコミュニティに参画している自覚がありますよ」ということを表現するコミュニケーションの形式である、そうぼくは考えている。

ぼくは小中高と野球をやっていたのだが、そこには野球部文化圏なりのマナーが確かに存在していた。
球場には必ず一礼してから入る。グラウンド内では走って移動する。
あいさつは大きな声でハキハキと、元気よくが基本だ。
発音はあまり重要ではない。
「オアザマース!」「アザース!」と発声していても、大きな声で元気がよければ、礼儀はきちんと相手に伝わるのである。
やる気のない生返事をしようものなら「声が小さい!」などと怒られる。グラウンド上でのマナーに反するからだ。
大きな声、はきはきとした挨拶、全力疾走。
そうした所作を実行することが「自分は野球をプレーする人間として、ふさわしい意識と態度を備えています」ということの表明になっているのだろう。

そして、そうした「野球部式の」マナーやしきたりが徹底されているチームは、自然と組織としてのクオリティも高くなっていたと思う。

あいさつや返事、グラウンド内の全力疾走がきちんとできているチームが必ずしも強いというわけではなかったが、強いチームは必ずと言っていいほど、あいさつや返事、全力疾走ができていた。

 

野球チームの場合では、閉じたコミュニティ内でのコミュニケーション形式だから基準もわかりやすいが、問題はビジネスなどの、前提認識や価値観の異なる人々と交流する際のマナーやエチケットの場合だ。
自分の振る舞いについて、何を失礼とみなすか、またそれらの基準点は、相手の置かれた環境や文化的背景、本人の意識などによって大きく異なる。
それらの諸背景を短時間で推し測りながら最適なふるまいを行うのは、コミュニケーションコストが極めて大きい。
だからこそ、礼儀作法の最小公倍数としてビジネスマナーが存在するのだろう。

ここで厄介な点は、有効範囲がビジネスシーン全体と広すぎるがゆえに、「社会人としてふさわしい意識と態度を備えています」ことを示すよりも、「マナーとして存在する行動様式を遵守する」ことが目的となってしまっていることだ。
この場合、心遣いよりもビジネスマナーとして存在する数多くの”型"を守れているかどうかが主要な関心点となってしまい、

「本人はきちんとした意識と態度を有していると自負しているのに、相手からはそうみなされない」

という事態が多く生まれてしまう。

就職面接での過剰なルールなど、その典型だろう。
そもそも希望した会社に入るために、明るい色の髪を黒に直し、蒸し暑くてもスーツを着て、歩きづらいパンプスを履いている。
それだけで十分、適切な意識と態度を示せていると思うのだが。
重箱の隅をつつくような”ビジネスマナー"を持ち込み、面接会場を茶室のような厳密な所作を求める空間にしてしまうのは、双方にとってメリットが薄いような気がする。

 

マナーについて語る場が必要だろう。
「この場面ではこう振舞うのがいい。なぜなら自分からはこう見えるからだ」
「その行為は正直過剰だ。もう少し適当であってもいいのではないか」
お互いがそれぞれの振舞い方について思っていることを話し合い、ちょうどいい落としどころを見つけられれば、過剰にマナーを守ることの息苦しさも、ちょっとは薄らぐのではないだろうか。

マナー講師も、そのために存在するならば、ちょっとは腹が立たなくなるかも。
講義受けたことないけど。